百日紅11

小説

 三十分ほどマッサージを続けただろうか。ふと顔を上げると、父がうっすらと目を開いていた。
 優斗は息をのんだ。ドアのりガラスを通して、廊下の蛍光灯の光が淡く差し込んでいる。仄暗さのなか、瘦せた眼嵩がんこうに深い陰影を刻んだ父の顔が浮かび上がっている。その目が、優斗を見ている。
 優斗は我が目を疑った。そうなるはずのない現実が目の前に展開されている。そんな光景を、容易たやすく受け入れられるはずもない。
 それは、単なる反射だったのかもしれない。時間的な差はあったものの、足に刺激を受け続けたことに対する反応なのだろう。恐る恐る見つめ返した父の瞳に、見ることに対する力は宿っていなかった。そこに意思はないと思った矢先、父は再び目を閉じた。優斗はほっとひとつ、溜息をついた。そして、視線を手元に戻した。
 腕の時計に目を遣ると、もう間もなく十時になろうとしている。常識的に、そろそろ帰らなければならないだろう。もう少しだけマッサージを続け、今度こそ実家に戻ろうと考えた。今日のうちにこうして二人だけの時間をもつことができてよかった。明日の午前中にまた、今度は母親と一緒に来ることになっているからと、返事を期待しない語り掛けをして帰ろう。そう決めた。
 優斗が父の足から手を離そうとしたその時、仄暗い空間で何かがかすかに動いた。視線を上げると、父がまた目を開いている。そして今度は、込められないはずの力を振り絞るようにして、頭を持ち上げようとしている。優斗はつい先刻と同じように驚きながらも、今度は奇妙なほど落ち着いて事態を理解しようとしている自分を不思議に思った。
「無理しないで」
 すでに意思が届かないことを知りながらも、きちんと会話をしたい。パイプ椅子から腰を浮かせ、父の顔が見えるように立ち上がった。
「ああ」
 優斗は思わず目を見張った。
 うめき声や気管を通じた空気の漏れなどではない。酸素吸入器をつけているにもかかわらず、それは明らかな声として優斗の鼓膜を振動させた。優斗の言葉に対する父の返答には、今や明確な意思が込められていた。
 優斗は背筋を伸ばした。父の目が、柔らかくこちらを見ている。
「遠くから来てくれたのか。ありがとう。おまえはいつも、優しいな」
 それは紛れもなく、父の声だった。
 ほんの少しの間、優斗の姿を捉えるために開かれていた父の瞼が、そっと閉じられた。首を持ち上げるために込められていた力がふと抜かれ、頭が枕に支えられる。
 優斗は鼻の奥にすっと冷たい空気が流れるような錯覚を得た。そして次の瞬間、目頭が熱く潤むのを止めることができなかった。ぽたぽたと、白いシーツに温かな丸い染みが落ちた。
 いつも待ち望んでいた。見ていてもらいたかった。聞いていてもらいたかった。
 自分の心の奥の奥、そっと仕舞い込んでいたはずの思いにふと行き当たった。この瞬間、この場所には優斗だけの父がいた。優斗だけを見て、優斗に向けて語り掛けてくれたのその声が、その短い言葉が、過ぎ去った日々のなかの棘を瞬時に取り除いてくれた。

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