百日紅12

小説

 じっくりと考える時間などなくても、または瞬間的に諦めずとも、分かっている。可能性がいくらでもあることが。
 その言葉は自分に向けられたものではなかったのかもしれない。兄か、姉か、あるいは母と取り違えた可能性もある。もしかしたら朦朧もうろうとした意識のなかで、父の思考はすでに時間も空間も定かではない次元に遊んでいたのかもしれない。そんな可能性すらあり得る。
 しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。今、父と自分の二人しかいないこの病室で、父が発した言葉を額面通りに、ただ真っ直ぐに受け入れればそれでいいのではないか。優斗には父の言葉そのもののほかに、欲しいものなど何もなかった。父のその言葉こそが、自分のこれからを支えてくれる。その証拠に、胸の奥が温かい。
 救われたかったのだ。
 親孝行をしていない、あるいはしたいなどと口にしながら、この見舞いを実行することで良い息子を演じていたに過ぎない。死を間近にした父を思い遣ることにかこつけて、あわよくば幼少のころから抱き続けてきた疎外感を払い除けてしまいたかった。そして今、自分でも認めてこなかったこの欲求を、父が満たしてくれた。
 優斗はただ、父に感謝した。自分を不安のなかで生きてこさせてのもまた、父の不器用さだということも忘れて。
 父の左足から両手を離した。まくり上げていた掛布団を元に戻した。
「明日、また来るよ」
 優斗は病室のドアへと向かった。
 廊下に出ると、来たときに対応してくれた看護師がナースステーションに詰めていた。視線を合わせ、会釈を交わした。暗がりが広がるなかを、階段へと向かった。おそらく看護師が、優斗が行く先々の明かりを灯してくれているのだろう。天井に並ぶ蛍光灯が、短い明滅を繰り返したのちに光の帯を結んだ。優斗は、しんと静まった光のなかを歩いた。

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