父は春を待った。
母と兄と姉、そして優斗。薄紅色の桜が香るなかを家族四人で歩いた。父が作ってくれた機会ではあるものの、ここに彼自身はいない。
寺の門をくぐる。左右の門柱の脇には、それぞれに立派な杉がそびえている。毎年、盆のころには降りそそぐ蝉の声に耳をふさぎたくなるほどだが、今は春の霞のなかで森閑としている。おそらくリスだろう。そこに小さく、素早く動くものの影を見た。
「こうなってしまうと、軽いものね」
何度目だろうか。繰り返される母の言葉に、もう誰も返事をしない。
母の胸には四角い白木の箱が抱えられている。刺繡が施された真っ白な布で覆われているために、木肌は見えない。木漏れ日に照らされた部分だけが異様なほどの白さを際立たせている。その下に、からからに乾いた骨が眠っている。
石の参道を歩く。ザッザッと、四人分の足音が重なる。他に人影は見えない。夏の盛りには濃い桃色の花をふんだんに纏う百日紅も、今はまだ眠っているかのようだ。
本堂の前に辿り着くと、兄は右手の母屋に挨拶に向かった。折よく玄関を開けて出てきた和尚の奥さんと短く言葉を交わしている様子が見えた。やがて兄は他の家族三人に対して本堂の入り口を指さして見せた。優斗が先行して入り口の引き戸を開け、はじめに骨壺を持った母を通した。次に姉と、駆け寄ってきた兄の順に通し、最後に自分が入った。
廊下を歩いて本堂に着いた。時間には十分に余裕がある。母が骨壺をそっと畳の上に置いたのを皮切りに、各々が腰を下ろした。自然と四人で骨壺を囲む形になった。
「喪主の挨拶。考えてはいるんだけど、いまひとつパッとしないな」
兄が喪服の内ポケットから小さく折りたたんだ原稿を取り出し、自信がなさそうに呟いた。
「練習してみたら? 聞いてあげるから」
気のなさそうな姉の声に、真剣に推敲する気などないことが分かる。
「そんなの、練習するようなものじゃないでしょう?」
母は忌事が苦手だ。人の死を殊更にする事実を好まない。練習などもってのほかだと言わんばかりだ。
「穏やかな人だったよな。特にエピソードらしいエピソードが無くて」
兄の言葉に、優斗は違和感を覚えた。
「エピソードが無いって、そんなことないだろ。ずっと一緒に住んでたんだから」
父の何を見て日々を送ってきたのか、ついそう思ってしまう。
「それなら、お前が俺の立場だったら何を話す?」
そう言われて、優斗は口をつぐんだ。
「そうだろ? お前は特に、親父について何か話せるわけじゃないだろ? 大学進学からこっち、ずっと家を離れてたんだから」
それはその通りだ。しかし、そうやって一緒に生活していた時間の長短が問題だと自ら認めているのなら、なぜ長い期間一緒にいながら何も書けないなどと口にするのか? 反対に問い質してやりたかった。しかし、優斗はその言葉をぐっと飲み込んだ。
「いつも静かに笑っているような人だったよな。俺なんか、怒られたためしがない」
「私も。女の子は私だけだったからかな。特に甘やかされた気はしないけど」
「叱り役はお母さんよ。お父さんはいつも見てるだけ」
優斗は二人の兄姉の顔を見比べた。
「あの人に、怒られたことはないの? 二人とも?」叱られたためしがないというのは信じ難かった。「ほら、兄さんは擂粉木で叩かれたって話題がときどき出るじゃないか。姉さんの場合は物差しでって」
「それはどっちも、お母さんにだよ」
記憶のなかの場面に、その光景を再生してみる。確かに、頭を抱えて逃げ回る兄のあとを擂粉木を手に追いかける場面にも、ピアノを前に泣きながら鍵盤を叩く姉の手に物差しを振り下ろす場面にも、母の姿がすっきりと馴染む。
「お前に対しては、なおさら優しい親父だったんじゃないか? って言うよりも、お前と親父が一緒にいる姿って、全然思い浮かばないな」
「そうよね、確かに」
兄の言葉に、姉が呼応した。