百日紅14

小説

「そんなことないわよ。お母さんが忘れられないのは、アパートに住んでたときのこと」
 土地と新築の一戸建てを手に入れる前、一家はアパートに住んでいた。母は語り始めた。
「日曜日、和室の前を通った時に、お父さんが畳の上で胡坐をかいて新聞を読んでる姿を見かけたの。一旦そこを離れて、しばらくして戻って見たら、仰向けになっていびきをかいて寝てたのよ」
 優斗はその場面の記憶が、自分のなかにうっすらと残されているような気がした。
 夏の夕暮れ、橙色の光。ひぐらしの声、風鈴の音。畳の香り、焼き魚の匂い。
 夕飯の支度を含めた家事に忙しく動き回っていた母は、父のいる部屋の様子をちらと垣間見るだけだった。その日、その部屋の前を通るたびに、なかの光景が変わっていたという。
「次に部屋の様子を見たら、いつの間にか優斗がお父さんの隣にまったく同じ格好で寝てたの。二人ともお腹の上に手を組んで、そっくりそのままの形で」
 昔を懐かしむ様子にふさわしく、母は遠くを見るような眼をした。
「それで?」
 姉が話の続きを促した。
「今度は晩御飯ができましたよって呼びに行ったときよ。優斗はそのままの格好で寝てたんだけど、お父さんは目を覚ましててね。寝てる優斗の方に体を向けて横になってたの。そしたらお父さん、読んでた新聞を布団みたいに優斗の体に掛けてね、上から下まで。その姿がまるでもう、路上生活者みたいなの。歌ってこそいなかったけど、子守唄を歌って聞かせるときみたいに手の平で優斗の胸を優しく叩いて。新聞紙があるからがさがさ音がして、可笑しかった」
 母はそう言って、朗らかに笑った。
「そのときのこと、何となく覚えてるような気がする」
 優斗は記憶の断片を手繰り寄せた。
「ずいぶんほんわかした思い出だな。俺の擂粉木や美代子みよこの物差し殴打事件に比べると、かなり穏やかだ」
「ほら、よく言うじゃない? 下の子は上の子の様子を見てるから、叱られないように賢く振る舞えるって。たけるや美代子と同じ失敗はしないってことよ」
「でも、父さんにたれたことはあるよ」
 兄と姉の二人が、同時に優斗を見つめた。その表情には明らかに驚きの色があった。「じゃあ兄さんと姉さんは、父さんに打たれたこともないの?」
「俺はない」
「私も」
「一度も?」
 二人が同時に頷いた。
「俺も、記憶にあるのは一回だけだけどね」
「よっぽど悪いことしたんじゃないの? あのお父さんが手を上げるなんて」
 姉は何らかの理由が欲しい様子だ。
「打たれたっていう事実が大き過ぎたと思うんだけど、びっくりしちゃって。理由は覚えてないんだ」
 次の瞬間、兄姉弟きょうだい三人そろって母に目を向けた。彼女は笑って三人の視線を引き受けた。
「お父さんが優斗を叱りながら打ったこと、お母さんは全部覚えてるわよ。ちょっとはお母さんだけの解釈が入ってるかもしれないけど」
 母は話し始めた。

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