百日紅15

小説

 やはりアパートに住んでいたころのことだから、優斗は小学三、四年生だった。
 アパートのすぐ隣に、高い塀をはさんで公立高校があった。基本的にはアパートの周りが遊び場ではあったが、近所の子どもたちはしょっちゅう塀を乗り越えて高校の敷地に遊びに行っていた。
 敷地の端っこには、役割を終えて取り壊されるのを待つばかりとなった木造の長屋があった。小さく区切られたそれぞれの部屋は、主に運動部の部室として使われていたようだ。近所の子どもたちはそこを勝手に「基地」と称して、漫画本や菓子を持ち込んでは入り浸っていた。おおらかな時代でもあったのだと思う。基地はその高校の敷地内だけでも数箇所もあったようだ。夕食どきに優斗の口からあふれる一日の遊びの話は、様々な場所に基地が置かれていた現状を物語っていた。時によっては一緒に遊ぶ友達一人ひとりが基地をもち、互いを自分の基地に招き合っては遊んでいた様子を聞き知ることができた。廃材や瓦礫がれきを積み上げた一画に作った基地で遊んでは、古釘によるひっかき傷や立ち上がった時に何かに頭をぶつけてこしらえたこぶで、その小さな体には生傷が絶えなかった。
 学校の敷地内に保管されていた太い電線を持ち出して、一端を使われなくなった旧校舎の螺旋らせん階段の手すりに結びつけ、もう一端を自分の胴体に結びつけてぶら下がって遊んだこともあた。そのときには手すり側の結び目がほどけて、優斗は二階の床の高さから地面に落っこちた。顎から血を流して帰ってきたのに驚いて、そのまま病院に連れて行ったら四針縫われた。今はそのときの傷が見えなくなって、本当によかった。
 子どもたちはそれはもう我物顔で、高校の敷地内を走り回っていた。
 そしてその日。夕方、お父さんが家にいたから日曜日だったと思う。
 当時は冬は冬らしく寒かったし、積雪は今よりも多かった。
 その年は年明けから寒波が繰り返し押し寄せ、例年よりも冷え込みが厳しかった。
 一月半ばの日曜日。その日はたまたま天気がよかった。
 優斗は昼食を終えて、外に遊びに出た。当時は自然と子どもたちがアパートの外に集まるようになっていて、特に誰かと約束などしなくても外にさえいれば遊び相手が見つかったものだった。
 優斗はいつもの成り行きで田中たなか雅臣まさおみくんと遊ぶことになった。昼食の洗い物を終えて台所の窓から外を見ると、優斗と雅臣くんが二人並んで楽しそうに話しながら歩く背中が見えた。二、三日氷点下が続いた後の穏やかな一日。光のなかで子どもたちの寄り添う姿は楽しげだった。ところが、夕方になって優斗が全身ずぶ濡れで帰ってきたことに、家族全員が驚かされた。
 この寒空の下、歩いて帰ってくるまでの間に体が冷え切ったのだろう。ずぶ濡れの全身に震えが走り、歯がガチガチと音を立てていた。確かに夕方になって雪が舞い始めたことは知っていた。しかし、いくら雪に降り込められたとしても、これほど濡れるとは考えられない。髪も上着もセーターもズボンもたっぷりと水を吸い、全身いたるところから水らしき液体がしたたり落ちている。あまりの異様な光景に、果たしてそれが本当に水なのかさえ疑わしく思えた。玄関の三和土たたきが、あっという間にその液体でひたされた。
 一体どうしたのと、半ば叫ぶように発した私の声に気がついて、お父さんも玄関先に駆けつけた。そして優斗を見て、怪我はないのかと真っ先に尋ねた。優斗は凍えているためにうまく呂律ろれつが回らないまま、「ない」と答えた。続けて何かあったのかと問うと、高校のプールに張った氷の上で、滑って遊んでいたという。プールの中央付近で転んだら、その勢いで氷が割れてプールに落ちたとの答えが返ってきた。
 

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