百日紅17

小説

「そうか、あのときか」
「それ、覚えてる」
 兄と姉が口々に記憶のなかの光景について話し始めた。
 夕日のなかに舞う雪。優斗の記憶があの場面に繋がっていく。
 風呂から上がり、綺麗になった体に温かな血が通っているはずなのに、震えが止まらなかった。そして父に呼ばれた。
 リビングに入ると、父はそこに胡坐をかいていた。その目の前に、座りなさいと促された。
 父もまた、優斗のあとに風呂に入っていた。その髪は濡れ、温かく湿った肌からは嗅ぎ慣れた石鹸の匂いがした。しかし、この日はいつにも増して二人の距離が遠かった。優斗は彼の前に小さく端座した。
 向かい合って座ったまま、父はしばらく何も言わなかった。その短いはずのが、優斗にはとてつもなく長かった。
「優斗をこのまま許してはいけないと思うのは」ようやく父はそう切り出した。「大切な友達を置き去りにして、自分だけ帰ってきたからだ。寒くて辛い思いをしている友達を助けるために、自分にできるはずの努力をしなかったからだ」
 父は優斗にできたはずの事柄をあげつらった。優斗には、その言葉通りだと思えた。
 本当ならば雅臣君を置き去りにした結果、彼が命を失うような事態を招きかねなかったことを恐れるべきだった。少し想像をふくらませれば、雅臣君が溺れる場面を思い描くこともできた。自分も雅臣君と同じように、あの、身を切るように冷たい水のなかに体を浸していたのだ。寒さのなかで、上手く呼吸することができなくなる可能性だってあったことが体感として分かる。
 あのときの自分には、雅臣君を助けようという発想そのものがなかった。そのことに今更ながら思い至った自分が、人ではない、何か別の存在のように思えた。
「だから」父の言葉は続く。その声は低く落ち着いていた。「これから同じようなことが起こったときに、今回のことを思い出してほしい。そうさせるために、今、お父さんが何をしなければならないのか。それを考えている」そう言って彼は目を閉じた。そして、口をつぐんだ。
 怖かったのだ。
 かつてうまく言葉にすることができなかった思いを、大人になった今ならそう表現することができる。幼かった自分のなかに宿ったその感情もまた事実だったことを、今更ながら理解することができる。
 プールサイドから薄っすらと雪をかぶった氷の上に初めの一歩を踏み出したときの高揚が、一歩また一歩とプールの中央に足を踏み出し続けるにしたがって恐怖に変わっていった。
 ある一点を踏み込んだ瞬間、足の裏の氷にみしりとひびが入った。背筋に悪寒が走った。
 いざ割れた氷の隙間から水が染み出したとき、金縛りにあったかのように動くことができなくなった。
 冷たく濁った水のなかに吸い込まれるように落ちていく瞬間の、下腹が何か大きな手に鷲掴みにされるような違和感が。汚れた水の、体を圧迫する冷たさが。すべて怖かったのだ。だからなりふりかまわず、その場から逃げ出した。

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