百日紅19

小説

 そのとき以来、父との距離を取り戻すことなく月日が積み重ねられてしまった。失われた父との時間は、自分からもっと努力すればすぐにでも取り戻すことができたはずなのではないかとも思える。父も同じだったのではないだろうか。
 父との親子丼の思い出が、そのことをあかししているのだと思いたい。別段優斗を連れて行かなくても用を足すことができたものの、彼は敢えて二人で過ごす時間を作ってくれた。ならばそのことを足掛かりにして、自分からもっと父に歩み寄ることもできたのではないだろうか。そして、その逆も可能だったはずだ。優斗は自省のなかで父との関係を考えてしまう。
 その一方で、優斗はこうも思う。
 あの体験もその後の父との関係も、自分には必要なものだった。
 いつも自分で発しては自ら回収してきた問いの答えを、他人の口から確認することはできないだろうか。ふとそう思って、母に訊ねた。
「父さんは、俺を叩いたことをどう思ってたんだろ? 俺はずっと嫌われてると思ってたから、とにかく近寄り難かったんだけど」
 母の表情が一瞬曇ったのを、優斗は見逃さなかった。
「そんなこと言わないでちょうだい。優斗のことをお父さんはずっと気にかけてたのよ。その一件のことも、自分がとった行動が正しかったのかどうか、過ぎたことなのにお父さんはずっと考えてた」
 そんな母親の様子を見ているうちに、自分のなかにそっと仕舞っておいた記憶を、家族に話してみたくなった。夜の病院で、浮腫んだ父の足をマッサージしたときのものだ。
「そんなことがあったのか」
 兄がどこか残念そうな、寂しそうな顔をした。
「お父さんが優斗を見てお前って呼んだんだったら、それは間違いなくあなたのことよ」
 母は穏やかな笑みを浮かべた。
「プールでの一件で雅臣君は? 大丈夫だったの?」
 姉が母から優斗に顔を向けなおし、そう訊ねた。優斗は、自分が覚えている範囲のことだと前置いて話した。
 雅臣君は次の日から数日間学校を休んだ。プールに落ちたことがきっかけでひいた風邪をこじらせたのだろう。熱がなかなかひかないらしいと担任教師から話を聞いたその日、優斗は学校から帰って家のなかにランドセルを放り投げると、すぐに雅臣君の家に見舞いに行った。
 きちんと謝りたかった。雅臣君の家に向かって走りながら、胸のなかがちくちくと痛んだことを覚えている。
 いざそこに着くと、熱が少し落ち着いたと言って雅臣君が起きてきた。
 ごめんねと謝った途端、初めて涙が流れた。一度堰を切った流れは止めようがなかった。僕の方こそごめん。一緒に遊んでたのに、優斗君を悪者みたいにしてしまって。そう言って、雅臣君も泣いた。
 雅臣君の家から帰ると父がいた。優斗は泣き腫らした目を見られたくなくて、被っていた帽子のつばを引き下げた。
 優斗の話を母が引き継いだ。
「そのあと、お父さんに優斗はどうしたんだって聞かれたのよ。あなたが真っ直ぐにお父さんを見なかったものだから、気になってたんでしょうね」
「お母さんは何て答えたの?」
 姉が訊いた。
「雅臣君のお母さんから電話があったからね。優斗君がお見舞いに来てくれたって。雅臣君が喜んで、二人で泣いてたって教えてくれてたから、お父さんにはそのまま」
「お父さんは?」
 今度は兄が。
「そうか、ってつぶやいて、笑ってた。優斗は、やっぱり優しいなって。お父さんは自分がやったことがいい影響を与えているようなことがあればって、どこかで待ってたから」

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