百日紅6

小説

 小学生のころ、優斗はいつも野球帽をかぶっていた。紺色のそれには、当時宮城球場を本拠地としていたプロ野球チームのロゴがあった。球場に歩いて通うことができる範囲に住んでいたからファンクラブにも入り、ナイターがあるたびにただの野原に過ぎなかった外野席で試合を観戦したものだ。
 春先の日曜日。いつものように帽子をかぶり、外で友達とキャッチボールをしていると、父が母に見送られて家の玄関から出てきた。その様子を目の当たりにした瞬間、体がきゅっと緊張したことを覚えている。父は優斗に目を留め、手招きをした。何だろうといぶかしく思った。キャッチボールの相手をしてくれていた友達にちょっとごめんと断りを入れ、父のもとに駆け寄った。見上げる息子に視線を合わせるため、父が中腰になった。
「優斗、これからお父さんと一緒に会社に行かないか?」
 断る理由もなく、「うん」と返事をした。父は微笑んだ。
 友達にはまたねと言って別れた。母にグローブとボールを預けて父と一緒にバス停へと向かった。優斗が小学生になって一年が過ぎる前まで東京に住んでいた一家には、自家用車がなかった。公共の交通機関が充実しているからという理由で車をもたなかった父は、すっかりペーパードライバーになっていた。実家がある仙台に帰ってきてからもこの状況を積極的に変化させる気力をもたなかったのか、ただ単に必要性を感じなかったのか、父が自ら運転するために車を購入することはついぞなかった。
 国道といえども、歩道には人一人が通ることができる幅しか確保されていなかった。父が前を歩き、優斗はその後ろに従った。その大きな背中を見続けていてもいいものかどうか迷い、足元や左右をきょろきょろと見回しながら歩いた。
 日曜の午後、バスはいていた。最後尾に若い男が一人、最前列に老婆が一人。父子おやこは優斗を窓際にして、車体半ばの二人掛けに並んで座った。明るい日差しのなかを走るバスは、その方向を変えるたびに差し込む光の位置を変えた。父の使っていた整髪料の匂いがした。
「眩しくないか?」
「うん、大丈夫」
 優斗は帽子のうばをぐいと引き下ろした。
 会話らしい会話ではないものの、父が言葉を発するたびにどきりとさせられる。そんな優斗の心持ちを知っているからか、父は敢えて言葉を繋げようとはしない。一問一答のような遣り取りを時折繰り返すばかりだ。それでも父は決してつまらなさそうには見えなかった。
 明日からの出張に持って行かなければならない書類を、会社に置いてきてしまったんだ。
 日曜日にバスに乗って会社まで行かなければならなくなった理由を、父はそんなふうに話した。宿題を忘れた子どもの言い訳のようだと思ったことを覚えている。父に対する遠慮のような気持から解放された、優斗にとって数少ない経験だった。
「優斗、降車ボタンを押してくれないか?」
 路線バスに乗るようなことがあると、上の兄姉きょうだい二人がどちらが降車ボタンを押すかで争う。幼い優斗もその争奪戦に名乗りを上げたいとは思うのだが、頭数にさえ入れられない雰囲気に圧倒されてしまう。そんな末っ子の思いを知っていたのだろう。降車ボタンを押すように促した父の声は優しかった。
 バスを降りた大通り沿いの歩道には、二人が横に並んで歩くのに十分な広さがあった。父は特に身長が高いわけではなかったが、そこはやはり大人だ。その横を優斗が並んで歩き続けるためには、足をせわしなく前に運び続けなけらばならなかった。

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