百日紅7

小説

 やがて社屋に着いた。
 一つ目の自動ドアを入ると、脇の小部屋に人がいた。
「このビルの安全を守ってくれている人だよ」
 父が軽く手を挙げると、男性はご苦労様ですと口にしながら、制帽の下で柔らかく微笑んだ。父と男性の間には、それなりの気安さと礼儀が混在しているように見えた。父は二つ目の自動ドアを抜け、ロビーを挟んで真正面に位置するエレベーターへと向かっていく。優斗は守衛にぺこりと頭を下げるためにちょっと立ち止まった。あっと言う間に置いて行かれそうになる。小走りに進み、エレベーターの前で再び父の横に並んだ。
 エレベーターが下りてきて止まる。扉が開き、父が先に、続いて優斗が乗り込んだ。いつもなら、あの下っ腹だけが下の階に取り残されるような独特な違和感を不快に思うのに、この日はそれが面白かった。社屋は四階建てだ。周辺の建物と比べても、抜きんでて高いというわけではない。しかし四階に着いたエレベーターを降りて父の机があるフロアの扉を抜けた途端、その窓の向こうに広がる街並みに優斗は思わず「高っけー」と声を上げていた。慌てて口を閉じて横を見上げると、父が笑っていた。
「そんなでもないだろ」
 父は真っ直ぐにフロアを進んでいく。優斗は父の背中を追い抜いて窓に駆け寄った。眼下に大小、高低、形状の様々な建物がぎっしりと並んでいる。写真のようにぴたりと動かないその光景に、玩具の街並みのようだと妙に感心したことを覚えている。
 その高さが、街並みの面白さが、そしてここに連れてきてもらえたこと自体が、優斗をたかぶらせた。
 ふり返って父の姿を探した。机に向かっている横顔が見えた。近づいてみる。
「ちょっと待っててくれ。すぐに終わるから」
 こちらを見もしないでそう言う父の姿が、どこか強く見えた。向かい合わせに並ぶ机の列には、書類が山のように積み上げられたものも、まったく仕事の痕跡が見られない、がらんと空いたものもある。机が並んでいるという意味ではよく知っている小学校の職員室と同じだが、全体の広さがまったく違う。その違和感が、優斗をさらに楽しませた。
「よし、帰ろう」
 そう言って父が自分の席を立つまで、それほど時間はかからなかった。椅子を立って出口に向かう父の背中について歩きながら、もう少しここにいたいとは言えなかった。
 社屋を出てバス停に向かう。
 バス停の時刻表と腕時計を見比べながら、だいぶ時間があるなと父はつぶやいた。日曜日は平日よりも便数が少なくなることなど優斗は知らなかったが、こうやって外に立ち、走りゆく車を見ているだけでも気持ちが湧き立った。
「優斗、腹は減ってないか?」
 ちょうど昼時だ。タイミングよくグーとは鳴らないまでも、空腹だった。
「大丈夫」
 父はもう一度腕の時計に目を遣った。
「この先にお父さんがよく行く定食屋があるんだ。腹が減ってないならジュースでも飲まないか?」
 優斗は頷いた。二人並んで街路を歩いた。
「いらっしゃい。あら珍しい」
 定食屋に入ると、三角巾にエプロン姿の若い女の人の声が、優斗を丸く包んだ。初めは父に向けられていた視線が優斗に移され、「あら珍しい」につながった。
「お子さんよね? かわいい」
 父と向かい合って着いたテーブルに、水の入ったコップを置きながら女の人は言った。
「そりゃそうだろ、俺の子だもん」
 思わず父の顔を見上げた。笑顔だった。こんなふうに若い女性と軽い言葉を交わす父の姿など見たことがなかった。
 そのとき、まさに漫画のようなタイミングで、今度こそ優斗の腹がグーと鳴った。ぶわっと音がしたかと思うくらい、瞬時にして頭に血が駆け上がったのが分かる。真っ赤になった自分の顔が目に見えるようだった。
「優斗、親子丼食べないか? 多いようだったらお父さんが食べてやるから。親子丼二つとクリームソーダひとつ」
 返事など待たずに発せられた父の言葉を、遮ることなどできなかった。
 そして親子丼が二つ、目の前に運ばれてきた。
 父がいただきますと言って箸をもった手を合わせ、丼のふたをもちあげた。優斗もそれに倣った。ふわっと温かな湯気が優斗の顔を湿らせた。目の前に、黄金色に輝く卵と鶏肉がある。その輝きに思わず見とれた。
「遠慮しないで、食べなさい」
 頷いて、とろとろの玉子を箸で少しだけすくった。そして口に運んだ。
「おいしい」
 思わずそう言っていた。
「だろう。お母さんの親子丼もうまいけどな。ここのはまた、別だろう?」
 父はそう言って、親子丼を口にかき込んだ。

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