あの人は、母に何を書き送ったのだろうか。母の絵手紙に対して、あの人が送ったのはやはり絵手紙だったのだろうか。それとも文字だけの手紙、あるいは絵葉書。返信はしていなかったのかもしれない。聞きたいことは山ほどもあるのに、うまく口にすることができなかった。
あの人が、もう一度片口を小さく傾けて見せた。佳佑はぐい呑を持ち上げてそれを受けた。一杯目で何も変化が起きない自分に、深い安堵を得ていた。それでももう一杯だけと、自分に言い聞かせてた。
「次の絵手紙をいただくまで、このカウンターから見える位置に貼っておくことにしていたんですよ」
あの人はカウンターから見える位置にある壁を指さした。そこには緑色の背景のなかに淡く浮かび上がる、薄桃色の蓮の花が描かれていた。
「新しい絵手紙がもらえなくなってしまったから、そのままずっとあそこに」
佳佑は過ぎ去った日々を思った。
母とは何もかもを共有する関係にあった。祐子は佳佑のすべてを知ったうえで受け入れてくれた。母と祐子。二人の存在が自分の人生を支えてくれていたのだと、今なら深く理解することができる。その二人を失った自分が今、何を求めているのか、それが分からない。
ここにもう一人、自分のすべてを知っている、あの人がいる。
あの人に改めて話すことは何もない。すべて母が知らせてくれていた。その事実が、これからの佳佑を支えてくれる。
ふと、厨房との境を成す暖簾が開いた。なかから懐かしい姿が現れた。
「恵三さん」
思わずそう呼んでいた。自分でもその顔を覚えていることに驚いた。十歳の男児にとって見上げるように大きかったはずの体が、今の自分とさしたる違いがないことになど気がつかない。歳のせいで相手が自分より小さくなっているであろうことにも。その姿は相変わらず大きく、堂々としていた。ぎこちない笑みに、かえってこの人なのだとの確信が深まる。
「好きだったろ、これ」
カウンター越しに、さらにアクリル板の上から伸びた手から、小鉢を受け取った。そのなかに、青ねぎの小口切りがのせられた牛筋の煮込みがあった。
宴会の席などで客がひと通りの食事を終えたあと、酒のつまみとしてちょっとした料理を提供することがあった。そのときの定番メニューにこれがあった。遠い昔、この人の仕事の回りをうろちょろしては、作り終えた料理の余りを少しだけ分けてもらっていた。その美味さに、つまみ食いの面白さを覚えた。子どもにとってはすでに遅い時間、母の仕事が終わるのを待つ間、佳佑の相手をしてくれたのはこの恵三だった。
「覚えていてくれたんですね」
恵三とあの人が一緒に暮らしていることは知っていた。それが入籍を伴わない事実上の関係だと知ったのはこのときだったが、すでに高齢に達しているこの男と会い、話ができるとは想像していなかった。手にした箸を小鉢に伸ばした。牛筋を口に入れ、噛んだ。噛み締めるほどに、懐かしい味が染み出した。
「君も覚えてくれてたんだろ? 小百合さんの料理の味も、俺のも」
「やっぱり今日の料理は」
「小百合さんとの約束だからな」
「母は、何て?」
佳佑は思わず身を乗り出していた。