10.『停電の夜に』 ジュンパ・ラヒリ著 小川高義訳 新潮文庫 平成19年6月10日第11刷

書評

 まったく異なる人格や経験をもつ登場人物たちが互いの内面を認め合い、補い合おうとするところに物語の面白さが生まれます。やがて物語の進展とともに、特定の登場人物の関係が度合いを深めていきます。特に男女の間にあっては、相手が自分にとってなくてはならない存在であることに気づかされたとき、二人の関係はある意味合いにおいてピークを迎えることになります。互いに相手を恋人であると認識したり、結婚という社会的な契約関係を結ぶことになるかもしれません。登場人物たちが互いにぶつかり合い、相手の内面に新たな光や影を発見し、それを伸長あるいは解消しようとする姿から、読者である私たちの感情は揺さぶられます。このピークに至るまでの過程を描いた作品を仮に恋愛小説と呼ぶならば、その逆の過程を描いた作品は失恋小説と呼ぶことができるかもしれません。「停電の夜に」は、恋、あるいは愛の終わりの過程を描いているという点において、まさに失恋小説と呼ぶことができる作品です。
 5日間、午後八時から一時間の停電になるという知らせが、電力会社から若い夫婦のもとに届けられます。夫婦の関係は、ある出来事をきっかけにして冷え切った状態にあります。互いにできるだけ顔を合わせないように行動し、気まずいやり取りを避けようと、敢えてすれ違う毎日を送っています。そんなときに予告された停電について、当初は二人とも、互いの関係に何らかの変化が起こることなど予想していませんでした。しかし実際に停電が始まってみると、二人の間に面白いことが起こります。「どういう具合か、はっきり言ったわけでもないが、決まりごとのようになった。双方から打ち明け話をするのだ。相手を、または自分自身を、傷つけたり裏切ったりしたような、ちょっとしたことを白状する」ための機会が、期せずして設けられることになったのです。それまでこの作品が失恋小説と呼ぶに足る下地をたどっているため、停電にまつわる新たな流れによって二人の関係が好転する過程が描かれるのではないかと期待させられます。そして停電が予告された日程のうち前半は、確かに二人の関係は好転するかのように描かれます。互いに隠してきたことを口にすることによって小さなわだかまりが消え、理解し合おうと努力する様子が描かれるのです。作者は決して大袈裟な書き方をしているわけではありません。雰囲気を醸し出す程度のものです。しかしそんなわずかな雰囲気の変化のなかに新しい風が吹くことを期待してしまうのは、やはり作者の筆力がそうさせるのだと思います。
 しかし、この短い物語は突如終焉を迎えます。電力会社からの通知によって、停電の予定が早く切り上げられることが知らされるのです。「これでゲームはおしまいだね」と語りかける夫に対し、妻は「でも、その気になればロウソクにしたっていいでしょう」と言います。このやりとりから、夫婦は互いに相手との関係を改善させることを望んでいるように思えます。ハッピーエンドを望む読み手であれば、このやりとりから物語が好転することを期待せずにはいられなくなります。しかし、妻の真意は別のところにあったのです。少なくとも妻には、停電によって増えた会話や食事の機会を、二人の関係を改善させるための契機にするつもりはなかったのです。なぜなら停電が終わってしまった最初の夜に、二人が別れるために妻がとった決定的な行動の事実を、夫に話してしまうからです。そのことに傷ついた夫もまた、妻を悲しませないために隠し通すつもりでいた過去の事実を、その場で口にしてしまうのです。「まだ彼女を愛していたから」話さないでいた事実を口にしてしまった以上、夫のなかに妻に対する愛はなくなってしまっているのです。こうなるともう、関係の改善など望むべくもありません。灯していた電気の明かりを妻が消したことで作られた暗闇のなか、涙を流すことだけが二人に残された道になってしまったのです。この短い物語を私は何度も読み返しています。それにもかかわらず、二人を置き去りにした闇のように深い孤独が、今回も私の心をとらえて離してはくれませんでした。何度読み返しても心が揺さぶられる、静かな名作です。

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