2.『放課後の音符(キーノート)』「Sweet Basil」 山田詠美著 新潮社 1989年10月10日発行

書評

 男女の間に友情は存在し得るのでしょうか?
 私自身のごく浅薄な経験から言って、この問いを投げかけると二つに分かれた意見が真っ向から対立することになります。数人の男女が集まるような場面でこの話題を持ち出すと、それぞれが自身の経験を語ってくれることが多くあります。「男女の間に友情は成り立つ」という立場の方々のなかには、「だって高校(中学)の頃のクラスメイトだった男(女)性とは、今でも何でも気楽に話せる関係にあるから」という事実や、「幼馴染とは家族ぐるみの付き合いをしているから」という事例が語られます。その一方、「男女の間に友情は成り立たない」という立場の方々もまた、経験則から正反対の結論を導き出しているのです。その結論は、「友達だったはずが、いつしか相手が、あるいは自分が恋愛感情をもつようになってしまった」という経験から導き出される場合が多いようです。男女のうち一方の感情が友情から愛情へと変化してしまった瞬間に、友人関係は破綻してしまいます。また、仮に双方の恋愛感情の芽生えによって友人関係からさらに一歩進んだ恋人同士になることができたとしても、友人関係が維持できなくなったという結果に変わりはありません。いずれにしても、男女の間に友情が成り立つか否かは、個人的な経験則によって意見が分かれるようです。
 男女間の友情を築くためにもう一つ感じるのは、ある種の「枠」が必要だということです。この「枠」という言葉は「環境」に置き換えることができます。個人の意思が及ばない、偶然に設けられた「枠(環境)」のなかに集まった男女の一部に、友情が成り立ちやすいように思うのです。この「枠(環境)」を学校というもっと限られた範囲に絞って具体化するならば、「学級」と置き換えるのが最も適していると言えるでしょう。同じ場に集まった同年代の男女だからこそ同じ悩みや興味や関心を共有することができ、友人としての関係を築きやすくなると思うのです。しかしその反対に、一度その「枠(環境)」から外れてしまうと、新たに男女間の友情を結ぶことが極端に難しくなります。それがある程度の経験を経た大人同士となるとそう上手く友人関係を築くことができなくなります。役職や年次などの目に見える差異があることはもちろん、社会人としてある種の遠慮や礼儀をもった接し方が望まれるため、相手の懐に入りにくく、また、相手を受け入れ難くなります。「枠(環境)」からはずれて、社会人になってから異性の親しい友人ができたという経験をあまり耳にすることができないのはそのためです。幸いにも「枠(環境)」のなかで異性との友情を育むことができた人に与えられたさらなる幸運は、友情が愛情に変わる瞬間を経験することができるかもしれない可能性です。友情が愛情に変化する境目には、何とも切ない痛みが伴います。古今東西を問わず、この切なさや痛みについて書かれた小説は枚挙にいとまがありません。「Sweet Basil」もまた、そんな作品のうちの一つです。
 幼馴染の純一と「私」(このブログの書き手と区別するための「 」です)。「私」はあるとき、純一に対してとても茶化したりすることができない視線が自分以外の女性から注がれていることに気がつきます。その視線の主はリエ。「なぜだろう。私の心の中には、まだリエの甘い匂いが残っている。変なの。移っちゃったわ。私の心の中で呟いた。私は、それが、本当はリエの匂いなどではなく、自分自身の心の中に生まれたものであることに気付いている。それなのに、リエのせいにして呟かずにはいられない。私は、まだ怖いのだ。彼女のように、恋することのせつなさに身を浸してしまうことが」。純一に対する気持ちに気がついてしまった「私」は、彼に対する恋愛感情をストレートに出すことができるリエに嫉妬しながらも、自分の気持ちを彼に告げることには強い戸惑いを覚えます。「私ね、いつのまにか、あなたのこと、好きになっていたのよ。そう告げることを想像してみる。そして、絶望する。彼にとっての私の価値は、そういうことを言い出したりしないところにあるのだ。彼は、女の子が必要だと思い始めたとき、それを私以外の人に求めるのだろう。私は、リエの気持ちを彼に気づかせたくないと、改めて思う。彼女だけじゃないのだ。私だって、せつない。私だって、彼のことをあんなふうに見詰めていたいのだ。それなのに、私は彼との気楽なお喋りの時間を失いたくないために、そんなことをまったく考えていないように振る舞わなくてはならない」。彼に対する恋愛感情を吐露して関係を一歩前に進めたいのに、現在の友人関係を壊してしまう勇気が出せない。自分が「私」の立場だったらと想像すると、思わず身もだえしてしまうほど悩ましく感情移入してしまうではありませんか。この感情移入こそ、読書の醍醐味で。
 この短編でもう一つ上手いなと唸らされるのは、「匂い」の使い方の巧みさです。時間や環境や人間関係によって十代の後半にはすでに大人と変わらない個人が出来上がっているけれど、まだ「匂い」が足りないと作者は言います。恋の「匂い」は大人になるために必要なものだとも。そして物語の最後で、リエが発する恋の「匂い」に純一が気づいてしまうのではないかと恐れる「私」に、彼がこう言います。「ねえ、おまえ、いい匂いするけど、香水つけてる?」。純一がリエの「匂い」ではなく「私」の「匂い」に気がついたということは、「私」の恋は実るのか。友人関係を壊すことを恐れず、恋人同士になるために告白する勇気をもつことが出来るのか。そう期待させるところで物語は閉じられます。五感の一つである嗅覚にうったえるあたりに、人間の動物的な側面をうまく利用して物語に説得力を加える上手さが光っています。男子高出身の私には異性の友人を作るのに適した「枠(環境)」をうまくもつことが出来なかったこともあり、友達と呼べるような異性はいません。ですから友人だったはずの異性がいつの間にか恋の「匂い」を身につけていることに気がつくなどというワクワク感を味わうことなど出来そうもありません。せめてこんな上手い短編に出会って粋な恋の始まりを疑似体験することが出来た幸せを、かみしめることにします。

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