小説 百日紅13 父は春を待った。 母と兄と姉、そして優斗。薄紅色の桜が香るなかを家族四人で歩いた。父が作ってくれた機会ではあるものの、ここに彼自身はいない。 寺の門をくぐる。左右の門柱の脇には、それぞれに立派な杉がそびえている。毎年、盆のころには降りそそぐ... 2024.08.31 小説
小説 百日紅12 じっくりと考える時間などなくても、または瞬間的に諦めずとも、分かっている。可能性がいくらでもあることが。 その言葉は自分に向けられたものではなかったのかもしれない。兄か、姉か、あるいは母と取り違えた可能性もある。もしかしたら朦朧もうろうとし... 2024.08.30 小説
小説 百日紅11 三十分ほどマッサージを続けただろうか。ふと顔を上げると、父がうっすらと目を開いていた。 優斗は息をのんだ。ドアの磨すりガラスを通して、廊下の蛍光灯の光が淡く差し込んでいる。仄暗さのなか、瘦せた眼嵩がんこうに深い陰影を刻んだ父の顔が浮かび上が... 2024.08.29 小説
小説 百日紅10 末っ子であるにもかかわらず、優斗が兄姉きょうだいのなかで最も早く子どもを授かった。 妻の舞も仙台の出身だ。体調が一番の理由だったが、その他の条件もことごとく合わず、出産のために青森から仙台に里帰りさせてやることができなかった。そのため長女の... 2024.08.28 小説
小説 百日紅9 父親の入院を知らされたのは、年が明けて一月も半ばを過ぎたころだ。 六十代前半に脳梗塞で倒れて以来、父の左半身には麻痺が残っていた。十年以上にわたってリハビリに取り組みながら、日常生活は一人でそれなりにこなすことができていた。しかし、前年の九... 2024.08.27 小説
小説 百日紅8 「あの親子丼、ほんとにうまかったなぁ」 仙台に向かう車の中、一人で口に出してみた。言葉と一緒に当時の景色も甦る。おそらくあのときからだ。特に食べたいものを決めずに定食屋に入るようなことがあると、迷わず親子丼を選ぶようになった。四十になった今... 2024.08.26 小説
小説 百日紅7 やがて社屋に着いた。 一つ目の自動ドアを入ると、脇の小部屋に人がいた。「このビルの安全を守ってくれている人だよ」 父が軽く手を挙げると、男性はご苦労様ですと口にしながら、制帽の下で柔らかく微笑んだ。父と男性の間には、それなりの気安さと礼儀が... 2024.08.26 小説
小説 百日紅6 小学生のころ、優斗はいつも野球帽をかぶっていた。紺色のそれには、当時宮城球場を本拠地としていたプロ野球チームのロゴがあった。球場に歩いて通うことができる範囲に住んでいたからファンクラブにも入り、ナイターがあるたびにただの野原に過ぎなかった外... 2024.08.24 小説
小説 百日紅5 おそらく小学校の低学年のころだったと思う。風で流されてきたのだろう。雪が舞っているのに頭上に雲はなかった光景が思い出される。 冬の凛と澄んだ空気の向こうに、不似合いにも大きな夕日があった。幼い自分の頭や肩に白い綿が降り積もり、その体全体を夕... 2024.08.24 小説
小説 百日紅4 ようやく紙コップを手に入れ、給湯口の下に置いた。緑茶かほうじ茶か、あるいは白湯さゆを選ぶことができる。優斗はほうじ茶のボタンを押した。それが紙コップに注がれている間、ようやく収まりかけた指の震えをさらに落ち着かせるため、左右の手の平を繰り返... 2024.08.22 小説