23.『火車』 宮部みゆき著 新潮文庫 平成22年11月15日第66刷

書評

 『火車』は、1992年7月に双葉社より刊行された作品です。現在私の手元にあるのは、1988年に新潮社から出された文庫版なので、出版社名の欄に新潮文庫と書きました。1992年にしろ1998年にしろ、ひと昔を十年と考えると、『火車』はふた昔前の作品ということになります。カード破産やローン地獄といった社会問題をテーマに挙げた作品であるにもかかわらず、今読んでもまったく古さを感じさせません。それは今でも、あるいは今だからこそ、これらの問題に直面している人たちが少なからずいるからに他なりません。時間が経過すれば物語を構築する道具はどんどん新しいものに移行していくため、20年も経てば小説の中に登場する道具も古くなります。しかしこの物語の根底に流れるクレジットカードという名の道具は、私たちの生活の一部になっているどころか、なお一層欠かせないものとなってきました。通常の使い方をしていればとても便利なこの道具が、使用上のちょっとした誤りから恐ろしい結果を招く鍵となってしまう可能性を、物語は教えてくれています。
 物語は主人公であり語り手の一人でもある休暇中の刑事が、自らの意思で失踪した女性の、巧妙に隠された足取りを追うところから始まります。次第に女性の過去が明らかにされていくなか、どうやらある種の犯罪を繰り返しつつ生き続けているらしいことが分かってきます。これからこの作品を読む方々のために、この点を詳しく書くことはできませんが、失踪した女性がいつしか容疑者として追われるようになっていくのです。この展開を物語の軸に据えている点において、推理小説のジャンルに属すると言えるでしょう。しかしこの女性が抱えている問題として、クレジットカードをめぐる事象が詳しく説明されているという点において、経済小説と呼びうる要素もふんだんに盛り込まれています。この物語が書かれた「三(み)昔前」から現在に至るまでその魅力を失わずにいるのは、経済小説としての現実感が私たち読み手に差し迫って来るからに違いありません。
 推理小説にはよくあることですが、この作品の場合にも物語の深度が進むにつれ、犯罪者に対する私たち読者の共感が深まっていきます。犯罪そのものは憎むべきことであるはずなのに、それを犯さなければならなかった人間の姿に心を揺さぶられてしまうのです。過去を背負い、本当の自分の姿を曝け出すことのできない女性は、人としてのささやかな幸せを手に入れることが出来そうになったときにこそ、再びその姿を消さなければならなくなるのです。自分を好きだと思ってくれる、愛してくれる人物に出会ったときにこそ、身を隠さなければならなくなるのです。これ以上の孤独があるでしょうか。そんな女性の姿をある意味において生き生きと、たっぷりの現実感をともなって描き切ることが出来る作者の筆力に、ただただ脱帽するしかありません。
 孤独という名の深海に身を隠し、その身を押し潰さんばかりの水圧に耐えながら、何とかして生き抜こうと「生」に執着する女性の姿。この物語を読みながら、その逞しさに惹きつけられている自分に気づかされました。私を含め、それほどの覚悟をもって毎日の「生」を送ることが出来ている人間がどれほどいるでしょうか。私たちはいつの間にか、リスクの少ない恵まれた環境の中で、自分の足元に転がっている小さな幸せだけに執着して生きているのではないでしょうか。耐えるべき水圧がないために、そこから抜け出そうと「生」に執着する貪欲さが希薄になりすぎているのではないでしょうか。そんなふうに自分の毎日の「生」を省みる契機を、この物語が与えてくれたように思えました。

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