主人公の「私」と、その友人である雅美の物語です。
二人は同じ中学校で仲が良かったものの、普通高校に進学することになった「私」に対し、帰国子女でバイリンガルの雅美はアメリカンスクールに進学することを決め、別々の進路を取ります。しかし二人の友情に陰りが差すことはなく、折に触れて連絡を取り合い、雅美が「私」の家に泊まりに来ることもあります。価値観の違いがかえって相手へお尊敬や親しみをいだかせるのか、いわゆる一般的な日本の高校生として歩む「私」は、雅美の姿に自分よりも一歩前を歩いている様子を感じ取ります。
雅美が「私」の家に泊まった際、煙草を吸おうとする彼女に、「私」は子どもの頃から使っている安物の宝石箱を灰皿として渡します。その際「私」が抱いた思いに、この物語の柱があるように思います。「大人と少女の微妙な混ざり合い。まさに、それは、私や雅美の年代を意味してはいないだろうか。どっちつかずのもどかしい時間。子供の部分の多い私は、大人への憧れに苦しいぐらい胸を熱くし、大人の部分の多い雅美は、完璧な大人でないことの喪失感を胸に抱え、手もちぶさたで煙草をふかす」。私は、どちらかというと「私」の立場、つまり大人になりたくてもがいている姿の方に共感がもてます。なぜなら私にも、大人への憧れに胸を熱くして高校時代を過ごした記憶があるからです。
大人になることのどこに、何に、どんなふうに憧れていたのか、今となってははっきりと思い出すことが出来ません。しかし、日常生活を送る空間の狭さに、息苦しさを感じていたことは覚えています。確かに、学校という集団生活のなかに身を置くことで得られるものはたくさんあります。親友と呼べるような存在を手に入れることも、集団のなかでうまく立ち回る術を身につけることもまた、有意義な経験と言えるでしょう。尊敬することが出来る先生にも出会いました。その先生に教わったことや話された言葉は、今でも私の心を温めてくれます。しかし、学校は限られた空間であることもまた事実です。そこでの生活は自ら行動することによって見知らぬ誰かと出会う機会に乏しく、自分とは全く異なった生き方をしてきた人の経験から、衝撃的な感銘を受けることも難しいものです。
近い将来、国境や民族、人種を越えて多くの人々と出会う機会を自ら作りたい。そこから見たことも聞いたこともないような世界の広がりを感じ取ることが出来るのではないか。そのための具体的な行動を起こすには、経済的な余裕がなければならない。せっかくなら自分で稼いだお金を使いたい。パスポートだって取らなければならない。ならば親の承諾が必要な未成年としてではなく、何もかも自分で判断できるはずの二十歳になったら、すぐにでも取得しよう。高校生の頃、私の内部ではそんな数々の欲望が渦巻いていたように思います。そして二十歳になった私が具体化した行動が、中国の砂漠地帯、敦煌・莫高窟への一か月にわたる旅でした。この旅から受けた感動は多岐にわたり、ここでは到底書き尽くすことなど出来ません。しかし今思いあたるのは、遺跡よりも自然よりも、その旅で出会った人々から受けた感銘の方が、私の心を強く揺さぶったという事実です。「Brush Up」は、二人の女の子が互いを信頼し、尊重し合った上で、恋愛への憧れと体験とを軸にした物語です。それを堅苦しい将来の夢へと置き換えて読んでしまったあたりが、私がまだまだその方向にイノセントで面白味がない証拠なのかもしれません。この物語は、私にそんな時代の自分の姿を思い出させてくれました。