35.『スプートニクの恋人』 村上春樹著 講談社 1999年4月25日第2刷

書評

 登場人物3人の行動を柱として描かれた物語です。すみれは大学の文芸科に籍を置く作家志望の女性です。彼女は17歳年上の既婚女性であるミュウと出会います。ミュウは自分の名前でコンサートを開くことができるようなピアニストになることを目指して邁進していましたが、ヨーロッパ留学中に恐ろしい出来事に遭遇し、ピアニストとしての可能性と同時に他者との間に性的な関係を築くことができなくなるという現実を背負っています。すみれはミュウに特別な感情をいだくようになり、意を決して自分の感情を打ち明けます。しかし、ミュウに拒絶されたことをきっかけとして、旅先のギリシャで失踪します。物語の語り手である「ぼく」はすみれと同じ大学を卒業した、彼女にとっての先輩にあたり、小学校の教師をしています。自分で思い描いているようにはうまく小説を書くことができずにいるすみれにとって、「ぼく」は良き相談相手であり、様々なアドバイスを与える存在です。そうしているうちに「ぼく」はすみれに恋心をいだくようになり、彼女がギリシャで失踪した際には、ミュウとともにすみれを見つけるべくギリシャの街を奔走します。
 この3人を取り巻く関係は実に繊細ですが、いかにももつれそうになる関係の糸を作者は巧みな表現によって捌き切り、それぞれの内面の葛藤を精緻に描きながら読者を物語の世界へと入りこませることに成功しています。ここではあえて、3人の関係性に触れることは避けます。それは芸術観やそれを左右する哲学、性に関する価値観などが物語の中に見事に描き込まれているからです。私がここでつらつらと書き連ねるより、作品を読んでその見事さを実感してほしいのです。今回はこの物語における「ぼく」の姿にだけ焦点をあてて書きたいと思っています。なぜならこの三者の中で最も浮いた存在が「ぼく」であり、物語のすべての過程に関与していながら、その存在が亡霊のように希薄だと感じさせられる特殊さに注目したいと思ったからです。
 小説を書くこととピアノを奏でることの違いはあるにせよ、すみれとミュウはそれぞれ全身全霊を傾けて自らの思い描く理想像にたどり着くべく、挑戦を諦めませんでした。しかしいよいよ避けては通れない壁に直面し、ついにそれを越えられなかったばかりに挫折を味わいます。一方「ぼく」に至っては、すみれの良き相談相手でありアドバイザーでありながら、理想を追い求めて苦しむことなど最初から放棄しているような生活を送っています。安定はしているけれども張り合いに欠けた生き方は、すみれとミュウの場合に比べて明らかに異質なものです。傍観者のようなその姿勢が貫かれるのかと思いきや、物語の佳境で思わぬ攻撃を受けます。小学生である教え子「にんじん」が、スーパーマーケットで万引きをしてしまうのです。その母親からの連絡で、「ぼく」はスーパーマーケットに向かいます。そこで警備員にこんなことを言われます。「先生を見ているとどうも何か釈然としないところがあるんですよ。若くて背が高くて、感じがよくて、綺麗に日焼けして、理路整然としている。おっしゃることもいちいちもっともだ。きっと父兄の受けもいいんでしょうね。でもうまく言えないんですがね、最初にお目にかかったときから何かがわたしの胸にひっかかるんです。うまく吞み込めないものがあるんです。ー中略ーただ気になるんです。いったいなにがひっかかるんだろうってね」というように、「ぼく」の存在自体の曖昧さをこの警備員に指摘されるのです。
 実は、「ぼく」と「にんじん」の母親は道ならぬ関係にあります。「にんじん」が万引き騒ぎを起こした背景にこの事実を知っていた可能性を不倫相手である彼女に指摘され、「ぼく」は一旦否定します。しかし、多くの人のためとの理由をつけ、彼女との関係を断ち切ることを決意します。これまで特に何の挑戦もせず、スマートな生き方をしてきた「ぼく」にとって、スーパーマーケットの警備員から執拗に浴びせられた否定的な言葉と不倫相手との関係の清算という二重のダメージは、それまでに経験したことのなかった痛手を「ぼく」に与えます。このエピソードの意味合いを、人生に対する「ぼく」の真剣さのレベルが、すみれやミュウのレベルにようやく一歩だけ近づくことができたように描かれていると捉えることに無理があるでしょうか。すみれやミュウが失ったものの大きさと比較すれば実に些末なものですが、「ぼく」がこの物語の中で何らかの痛手を被った箇所はこの場面以外にないのです。好きになったすみれの失踪に直面し、いくら彼女を探しても見つからないことに対する焦燥や苛立ちや喪失感があったことは容易に想像することができますが、そのことによって打ちひしがれる「ぼく」の姿はどこにも見られません。すみれを見失っても普段の生活を営むことができているのです。物語のいよいよ最後になって「にんじん」とその母親とのエピソードをもってきていることの意味を考えると、やはりこの場面で「ぼく」の変化の兆しを読者に見せておきたかったのではないかと思うのです。多少なりとも人生の痛手を経験したからこそ、「ぼく」のもとに突然すみれからの電話がもたらされるという、この物語の構図が許されているのです。
 さて、読み方によっては解読するのが難しいこの物語を、ごく限られた観点から切り取ってみましたが、すみれとミュウと「ぼく」の三人のうち、あなたなら誰の生き方により一層深く共感することができますか? あるいは誰のような生き方をしたいと思いますか? 私なら迷わず、すみれのような生き方をしたいと答えます。自分の感情に素直に従って行動し、求め、失い、ぼろぼろになりながらもなお諦めない、そんな生き方をしてみたいものです。そうなるまでには、まだまだ痛手が足りないのでしょうけれど。

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