数年前、カナダに出張しました。
英語が得意かそうでないかは個人によって大きな差がありますが、私は英語が苦手です。いわゆる受験英語ならばまあ何とかなるのかもしれませんが、会話となるとまるで駄目です。ネイティブスピーカーを目の前にすると、英語が苦手な人間特有な、「金縛り」にあったように動けなくなるのです。頭のなかに言いたいことの部分的な単語は出てくるのに、それが文章としてのまとまりをもつには至りません。いや、この表現は間違っているのでしょうね。本当に英語を話せる人であれば、頭のなかで文章を構成するまでもなく、言葉が次々と口をついて出てくるものなのでしょう。例えば私たちが日本語を話すとき、文章を頭のなかで作ってからいちいち確認し、口にする場合は少ないはずです。よほど言葉を選ぶ相手や状況でなければ、そんな話し方はしないでしょう。というわけで、私は英語を話すことにある種のコンプレックスをもっています。そんな私が国内の空港から始まるすべての旅程を、ほぼ一人でこなさなければならなくなったのです。地方の空港から羽田、羽田から成田、そして成田からバンクーバーまでの旅程は順調に進められましたが、バンクーバー空港に到着してからが大変でした。バンクーバーからヴィクトリアに向かう便が欠航になったのです。天気は快晴、風もありません。時間にも余裕があり、飛行機が飛ばないことなど考えもしませんでした。私はバンクーバー空港に到着後、時間に余裕があるものの、すぐに次の出発ロビーに向かいました。出発ロビーに到着すると、そこには客の姿がまばらでした。出発時間までにはまだ余裕があるのですから、当然のことです。時間に余裕はあっても、私の心に余裕はありませんでした。よく聞き取れもしない構内放送に常に耳をそばだて、どんなに小さな情報も聞き逃さないように注意しました。時間は少しずつ定刻に近づいていきます。もうすぐ搭乗手続きのアナウンスがあるだろうと思ってさらに注意深く聞いていましたが、私が乗るはずの便名がいっこうに案内されません。そしてとうとう、定刻になってしまったのです。目の前のカウンター越しには、一時間以上も前から小型プロペラ機が停まったままです。私は漠然と、その機体に乗ることになるのだろうと予想し、それに乗るためのアナウンスを待っていたのですが、一体どうしたことでしょう。とうとう必要に迫られ、カウンターの女性にチケットを見せながら、この便はどうなっているのかと問いかけました。英語が苦手な方であればお分かりいただけるのではないでしょうか。このとき、私の心臓はバクバクと鼓動し、飛行機が滑走路を飛び立つよりも先に私の胸から外に飛び出してしまいそうでした。カウンターの女性は何度か私のたどたどしい英語を聞き返した後ようやく理解してくれたらしく、「ごめんなさい、その便は欠航になりました」と教えてくれました。おそらく欠航のアナウンスはきちんと為されていたのだと思います。それを私が聞き逃したのでしょう。英語力の無さをこのときほど情けなく思ったことはありません。「もっと勉強しときゃ良かった」と痛切に思いました。おそらく私の両肩は、床につきそうなくらいにしょんぼりと力なく落ち込んでいたのでしょう。カウンターの女性はいかにも申し訳なさそうに、私を元気づける言葉(多分ですが)をかけてくれながら、すぐに次の便に乗る手はずを整えてくれました。結局、その後2時間ほどして私は機上の人となることができました。ヴィクトリア空港では旅行代理店の現地スタッフが心配しながら待っていてくれましたし、私の話を聞いて大変だったねといたわってもくれました。結果的には大事には至りませんでしたが、言葉が通じないことの心細さは忘れることができません。その後の旅程でも、1人で英語と悪戦苦闘した場面は数知れませんでした。その日その日の日程を終え、どっと疲れてベッドに倒れ込む毎日でした。
英語の壁に直面して打ちひしがれた私を救ってくれたものは、やはり日本語でした。旅立つにあたって何か本を1冊持って行こうと思い立ち、時間がないなか本棚から取り出したのは『智恵子抄』でした。ヴィクトリアやバンクーバーのホテルで1人、寝る前に開いたこの詩集の1ページ1ページ、詩の1編1編に、一言一言に心が揺さぶられました。こんなにも深い感情に満ちた日本語を、お互いの命を大切にするために赤裸々に綴った作品の素晴らしさを、私は改めて思い知らされました。
いやなんです
あなたのいってしまうのが
「人に」という作品の、あまりにも有名な書き出しです。敢えて行を改めて本来の文章表現のままにここに書いたのは、「いやなんです」という熱のこもった言葉の後に続く小さな冷却が、行間に上手く機能していると思えたからです。1人の女性を自分だけのものにしたいという感情を、隠すことなくぶつけることが出来る作者の幸運を、私はこの書き出しの部分に感じ取ることが出来ます。そしてその感情が生まれる理由が「あなたのいってしまう」ことにあるのだと自覚しながら、なおも相手を愛する自分の感情の確かさを認めている。私には、この二行をそんなふうに読むことが出来ます。そうです。言葉は自分の感情を人に伝えるためにあるのです。言葉がうまく通じなくて相手に自分を理解してもらえないという状況は、何とも歯がゆく、苦しいものです。この夜、私はまさに言葉が通じないことへの不安と絶望のなかにありました。その反面、言葉を尽くせば自分を分かってもらえる、自分の思いが通じると感じられることは、自分の将来をどのようにでも作り出せる可能性に満ちたものだということに気づかされたのです。言葉によって互いに理解を深め合い、分かり合えることは、誰かと一緒により良い未来を築いていくことにほかなりません。これを希望と呼ばずに何と呼ぶのでしょうか。言葉による未来への希望を、私は『智恵子抄』から教わったのです。
バンクーバーの夜のなか、ベッドに入った私は、日本に帰ったら家族に言葉できちんと伝えようと思いました。本当に大切だと。
4.『智恵子抄』 高村光太郎著 新潮文庫 平成17年6月10日120刷
