46.『その女アレックス』 ピエール・ルメートル著 橘明美訳 文春文庫 2015年4月10日第14刷

書評

 久しぶりに犯罪小説、あるいは推理小説を読みました。ひところはこの種の小説を続けざまに読んでいましたが、ここしばらくは手に取ることがありませんでした。その理由を今回の読書経験を踏まえて自分なりに考えてみました。その結果、作品の中に頻繁に登場する暴力や殺人の描写の影響により、読後感が暗い方向へと引きずられていく感覚に抵抗があることに気がつきました。物語の性質上、暴力や殺人にまつわる場面が詳細に描かれることは必然であり、読者はその場面を避けて通ることはできません。反対に、暴力や殺人にまつわる場面の描写力や、行為そのものの手法がユニークな作品が注目される要素をもつことになり、読者を惹きつけることができると言えます。この理由から、ときには暴力や殺人の場面が残酷で凄惨な作品ほどもてはやされる場合があることを、私は残念に思います。作者が自ら創造した登場人物たちの内面にその筆力をもって肉迫し、暴力や殺人の必然性が無理のない言葉で語られた結果、その事件を起こすことでしか生きていくことができない人々の姿に読者を寄りそわせてこそ、傑作と呼ぶにふさわしい作品となるのではないでしょうか。
 この作品の優れた点は、読者の推理を適度に裏切る構成の巧みさにあります。この文面ではストーリーについて語ることを慎重に避けなければなりませんが、三部構成を取る本作は、第一部で主人公の一人であり誘拐事件の被害者であるアレックスという名の女性の行方を追う物語が展開されます。しかし、ストーリーが進むにつれて、被害者であるはずのアレックスがどうやらぞれだけの存在ではないらしいことが明らかにされていきます。この流れが比較的短い章立てで区切られ、しかもアレックスと捜査官の視点が交互に描かれるため、テンポよく物語が進展していきます。この流れの中で、読者はアレックスの存在そのものに対する見解を、作者の巧みな語り口によって二転三転させられることになります。作者がプロットを巧みに操って読者を手玉に取り、楽しませ、作品世界にぐいぐいと引きこんでいく筆力をもっていることに、ただただ敬服させられるばかりです。
 アレックスがどのような女性として描かれているのか、読者に理解させるために作者が割いた紙面は、内容・分量ともに必要かつ十分であると思えました。アレックスは言うまでもなく、物語の構成上主人公の一人として描かれ、彼女の視点から書かれる内容が第一部と第二部を通じて約半分を占めます。ところがその他の登場人物については、その内面の奥深くにまで踏み込んで十分な描写を与えられているとはとても言い難いのです。物語上、アレックス以外で最も詳しく書かれるべき対象はカミーユ=ヴェルーヴェン警部です。彼についても過去の辛い経験と、この事件に取り組み始めた時点でその辛さを引きずったままである様子が描かれています。しかしなぜでしょう。カミーユが背負う辛い経験が、いかにもアレックスを救い出そうとする姿勢の強い動機づけとして機能し得る内容であっても、それ自体がアレックスの過去に比して明らかに影が薄いのです。カミーユをはじめとした捜査陣の奮闘を描いた文章は、第一部と第二部を通じて約半分に至るばかりか、第三部については全体を占めています。それにもかかわらず、アレックスの人物像が際立って読者の記憶にとどまる力を宿している反面、カミーユの人物像はどこまでいっても表面的な描写に終始してしまっているように思えてならないのです。
 犯罪小説、あるいは推理小説を読むことの醍醐味は、物語がどれほど多くの痛ましい暴力や殺人に彩られていたとしても、そこに描かれた人物たちが何らかの形で救われる姿を垣間見ることができる点にあります。しかし本書については、残念ながらこの醍醐味を味わうことができませんでした。文章上はきちんと登場人物ごとの救いが準備されています。しかしそれは形式的にそうしたに過ぎず、アレックスの姿を描いた場面とは不釣り合いなほど、その描かれ方が薄弱であるように思えてならないのです。これはあくまでも私見ですので、物語を読んだ方々が同じように感じるかどうかはわかりません。しかし、プロットを工夫して読者の好奇心を搔き立て、作品世界にぐいぐいと引きこんでいく筆力に比べると、登場人物を際立たせる、描写力とも呼べる力がいまひとつ不足しているように思えてなりません。この理由から、カミーユをはじめとした捜査陣の姿が、個性的というよりもどこか掴みどころがなく、曖昧な存在に思えるのです。同じ作者の次回作ではこの点が修正されていることを期待して、新作が出版されたら手に取って読んでみたいと思っています。
 このブログではしばらくの間、書評という名のもとに本にまつわるエッセイを配信してきました。あと数回はこのシリーズを続ける予定ですが、その後は犯罪小説、あるいは推理小説と呼びうる長編作品を掲載しようと準備を進めているところです。この作品では、登場人物をいかに生き生きと描くことができるかという点に目標を据えています。暴力や殺人そものもを際立たせるような手法よりも、犯罪を起こすことでしか生きられなかった人々の姿を丁寧に描き切りたいと考えています。そのうえで登場人物それぞれに対する何らかの救いをもたらすことで、読者に明日を生きる糧を感じてもらうことができれば幸いだと思っています。前述の通り長編になりますので、読者の皆さんを飽きさせてしまうのではないかと心配ですが、ぜひとも完成までこぎつけたいと思っています。どうぞお楽しみに。

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