小学校・中学校・高等学校を通じ、国語の教科書で接した物語で思い出深い作品は何ですか?
こう問われたら、皆さんは何と答えるでしょうか。自分が幼い頃に読んだ作品を今の子どもたちも読んでいることを知ると、何か特別な秘密を共有しているような親近感さえ湧いてくるのは私だけでしょうか。高等学校で使用する教科書に掲載されている小説として定番なのが、夏目漱石の『こころ』、芥川龍之介の『羅生門』、森鴎外の『舞姫』などです。皆さんも教室でこれらの作品に接した記憶があるのではないでしょうか。そのなかでとりわけ強い光を放って私のなかに残っているのは、中島敦の『山月記』です。
私にとって身近な人たちとこの作品について話すと、和漢混交のリズミカルな文体に惹かれるという意見が多く聞かれます。私もこの意見に大いに賛同します。適切な長さで区切られた文章は読みやすく、それこそ軽快なテンポで心地よく読み進めることができます。そこには、まるで長編の詩を読んでいるかのような流麗があります。一方、内容についてはどうでしょうか。例えばある出版社の教科書の巻末には、「文学的文章を読んで話し合う」というコーナーが設けられています。ここでは生徒同士の話し合いの例として、いくつかの意見が載せられています。それらの意見に共通するキーワードは、「同情」や「共感」です。人、または虎になってからの主人公に「同情」や「共感」を抱くことができるか。学校教育の場ではそこにこの作品の内容を読み解くための指導の主眼が置かれているようです。しかし「同情」や「共感」と言われると、私は違和感を覚えます。私がこの作品、とりわけ主人公の生き様に関して抱く感情は、「羨望」だからです。
「1%の才能と99%の努力」という言葉はよく耳にするところです。この言葉には様々な解釈があるかもしれませんが、99%の努力を維持するためには多くの時間を費やすことでしょう。そして常日頃からそのことで頭をいっぱいにしている人たちが、思わぬ閃きを得て結果に結びつけることが称賛されます。程度の問題と言えばそれまでですが、その姿は「山月記」の主人公の姿に重なります。また、何かに夢中になって取り組んでいる人の姿が美しいものとして好まれる価値観もあります。それこそ、夢中になれるものが何もない人に対して「同情」する動きさえあるように思われます。つまり、詩行に夢中になっている主人公の姿は、見方を変えれば「羨望」の対象となり得るのです。私自身、夢中になることができる対象を見つけ、そのことに異類の身となるほど邁進した主人公の生き方に「羨望」を感じるのは、自分が持っていないものを主人公が持っているからに他なりません。
主人公は自分の才能を信じて職を捨て、家族を顧みず詩行に没頭します。優れた才能の持ち主ではあったものの、憤悶のあまり狂気が日常を凌駕していきます。その狂気が頂点に達したとき、主人公は異類の身、虎になってしまうのです。この作品のなかに使われる「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」という言葉はあまりにも有名ですが、この二つの言葉が虎の姿をもった表皮となって、人間としての主人公の姿を覆いつくしてしまったと言えるのではないでしょうか。しかしその一方で、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を抱くことができるほど、何かに夢中になって取り組むことができている人も少ないのではないでしょうか。本来称賛されるべき姿に挑戦すらできないでいる人々の多いなかで、異類に身をやつすほどその道を邁進することができた主人公は、ある意味において幸せだったのではないかと思うのです。高校生の頃に教科書で初めて読んだ「山月記」を再度通読し、日常の忙しさを言い訳にして、自分にとって大切なものに挑戦しないでいることに改めて気づかされました。「今は〇〇に夢中です」なんて、子どもみたいに(まるで子供が悩みなんて抱えていないように聞こえるかもしれませんが、そういう意味ではありません)屈託なく笑って言える大人になりたいものですね。