『空港にて』は短編集です。その中に収められた表題作、「空港にて」は、どこか切ない物語です。
主人公の女性は、ある映画を観たことから、義肢装具士になることを夢見るようになります。その仕事の内容や職に就くための情報を集めようと、何度もネットで検索しようとします。しかし、不安になってすぐに検索を止めてしまうのです。「義肢を作ることを真剣に考えるのが恐かった。どうせすぐにあきらめなければならないと思った」からです。またその理由として、彼女は自分が置かれた境遇を挙げます。「三十三歳の子持ちでバツイチで風俗で働く女には絶対に無理だと思ったし、だいいち何から手をつけていいのかわからなかった」。自分一人の力で夢を築きあげるには、あまりにも過酷な現実が彼女の前に横たわっています。
何をするにも遅すぎることはないとか、信じれば花開くとか、何かに挑戦しようとする人を励ます言葉はたくさんあります。しかし、夢が大きければ大きいほど、その夢にたどり着く道のりは長く険しいものになります。上記のような言葉で声援を送ることそのものは簡単です。しかし具体的な方法を用いて支援するとなると、支援する側の人間にも相当の努力が必要とされます。そんな努力を惜しまずに夢をかなえようとする相手をサポートすることができる人間がどれほどいるでしょうか。さらに、その支援が無償のものであって欲しいと考えるのは都合がよすぎるのかもしれません。夢を追いかけている側からすれば、そんな支援者に出会えることはまずありません。
主人公の女性はサイトウという男性と出会います。サイトウは彼女に、義肢装具士になるための学校に通うことを勧めます。しかし、彼女は自分が置かれた境遇を理由に、なかなかその一歩を踏み出せずにいます。サイトウはその背中を後押しするため、熊本にある義肢装具士の養成学校へ一緒に見学に行くことを提案します。この物語は、主人公とサイトウがこのことのために空港で待ち合わせる場面を描いたものです。危うい二人の関係のなかで、一条の光を信じて相手を待つ、主人公の心細さが痛いほど伝わってきます。熊本行きの便が出る時刻がどんどん迫ってきます。そこにサイトウは本当に姿を見せるのか。主人公と一緒にハラハラしてしまうのは、この物語を読んでいる私自身が夢をもっているからかもしれません。
一方、サイトウの立場に立ってこの物語を眺めてみるとどうでしょう。実はサイトウも、夢を追いかけているのかもしれません。苦しい境遇にありながらも夢をもとうとしている主人公の支援者になることで、彼女の夢に便乗していると読むことができるのではないでしょうか。彼女に夢を信じさせるため、一緒に熊本まで行こうとするサイトウの姿に、彼が得られるはずのメリットを推し量る読み方は良くないのかもしれません。しかし私には、彼女の支援者になることで、サイトウ自身も自分と彼女との新しい生活について夢を抱き始めているのではないかと思えるのです。夢を追う者と支援する者、支援の先に新しい生活を夢見る者と支援される者。この記事の冒頭に書いた切なさとは、サイトウが彼女の前に現れない可能性が常に準備されている点と、彼女とサイトウとの関係が未来に花咲くことの困難が予想される点に由来します。二人が幸せになることを願わずにはいられない、読後にそんな温かい気持ちになることができる物語です。