夏は読書の季節です。そう感じるのは私だけかもしれませんが、小学校から中学校、高校、大学と、学校と名のつく各種教育機関が夏季休業に入ると、本を読む機会も読ませようとする動きも活発になるように思います。最近では読書感想文を、希望する児童や生徒にだけ書かせる動きが多くみられるようです。しかし私がその年頃には、半ば強制的に感想文を書かされていた記憶があります。私は本を読むのが好きな性分でしたから、読むこと自体は苦になりませんでした。それでも感想文を書くとなると話は別です。文章の骨組みをうまく構成することができないのはもちろんのこと、自分の気持ちや考えを文字に起こそうとすると妙に照れくさく、その反対にどうせ書くなら素晴らしいものをと意気込んでみたりして、結局最初の一行を書き出すのに四苦八苦するような有様でした。皆さんのなかにも、読書感想文が書けないまま放っておいたらいつの間にか夏休みの終わりが近づいていて、家族の誰かに手伝ってくれるよう泣きついた記憶がある方も少なくはないはずです。私はそんなちびっ子たちの代表選手でした。このように、読書感想文が日本中の少年少女たちの悩みの種になっていた時代があったからこそ、夏は多くの本が売れる時期となったのではないでしょうか。そのために「〇〇の百冊」などと銘打った各出版社によるキャンペーンが書店の店頭に張られ、私たちに本を手に取るきっかけを与えてくれているのです。
数年前の夏、そんなキャンペーンのために設けられたコーナーで手にしたのが『江戸川乱歩傑作選』でした。それまで乱歩の作品を読んだことがなかった私は、他人の視点を介したものであれ、傑作選なら特定の作家の作品を知る手掛かりとして都合がいいと考えたのです。また、夏の暑さを少しでも涼しく演出するにはもってこいの作者であり作品群であるとも思いました。目次を見ると、よく知られた短編の作品名がずらりと並んでいます。見るからにおどろおどろしい単語の数々に、自分でも意味の分からない「おおっ」という思いを抱いたように思います。そのなかで最も毒のない作品名が「二銭銅貨」です。1960年に書かれた本書巻末の荒正人氏の解説によると、この作品は乱歩の処女作です。解説にはその他に、「あの泥棒が羨ましい」という書き出しを、松本清張が称賛したエピソードが綴られています。確かにこの書き出しは秀逸ですね。泥棒を羨むとはいったいどういうことだろうかと、読む者を物語の世界に一気に引き込む役割を十分に果たしていると言えるでしょう。
書き出しの秀逸さと合わせて、私がこの物語で面白いと思うのは、語り手である主人公ともう一人の男性が置かれた境遇です。「場末の貧弱な下駄屋の二階の、ただひと間しかない六畳に、一閑張りの破れ机を二つならべて、松村武とこの私とが、変な空想ばかりたくましくして、ゴロゴロしていた」というのです。巻末の解説には、この作品を執筆していた当時の乱歩は失業中だったということで、特に書き出しの部分に「乱歩の実感が滲み出ているように思う」と指摘されています。主人公の境遇を示す上記の抜粋部分からは、もやもやとわだかまった空気が充満しているような、いかにもこれから悪いことが起こりそうな空気が漂ってきます。このあたりの背景作りが実に上手いなと思うのです。暇を持て余した挙句についこんなことをしてしまったという物語の前提を、読者のなかに巧みに構築していると言えます。こんなふうに読者を引き込む物語を編むことができるなんて、流石ですね。児童や生徒と呼ばれる年代が読むものとして、あるいは読書感想文の題材として適しているかどうかは別にして、この作品の空気感をいつかは皆さんにも味わってもらいたいものです。