保奈美は短く張り出した玄関わきのひさしの下に自転車を寄せた。私もその隣に自分の自転車を並べた。家の鍵を鞄のポケットから取り出すと、彼女は何も言わずに玄関の鍵を解いた。引き戸をガラガラと開けて私を中に促すと、自分は靴を脱いでさっさと台所に向かった。私はどうしていいのかが分からず、そのまま玄関につっ立っていた。
面積が小さいうえに窓ガラスが薄汚れているからなのか、昼間だというのに家の中は薄暗かった。空気の淀みはいくら窓を開けて換気しても消えそうにない。台所を含んだダイニングの隅にうず高く積み上げられたごみ袋の山から、または汚れたままの食器があふれんばかりに詰め込まれた流し台から、常に臭気が発し続けられているように思えた。
半端に開かれた襖の向こうに見える左手の部屋には、敷布団がのびていた。その上に薄手のタオルケットが掛けられている。
人が生活している気配はいくつか見つけることができるのに、この家からは人の温もりが感じられなかった。何かこう、倉庫の中にいるような、本来的に人が生活すべきではない場所に隠れ住んだ人類の痕跡を見せられているような、そんな曖昧な暗さが家全体に沈んでいた。
「ごめんね。少しだけ待ってて。上がらせられないよね、こんなところには」
保奈美はそう言って敷布団が見える部屋の襖を開け、中に入っていった。しばらくして出て来たかと思うと、手にした衣類らしきものを洗濯かごにほうりこんだ。一旦その手を洗い、冷蔵庫から缶ジュースを二本取り出した保奈美が、玄関に立ちつくす私のところに戻ってきた。家全体に泳いでいた私の視線が自分の目に戻って来るのを待って、保奈美が言った。
「お待たせ」
「ごめんね、どうしていいのか分からなくて」
保奈美に嘘をつきたくはなかった。私は思ったままを口にした。
保奈美は一つうなずくと、ついさっき脱いだばかりのローファーにもう一度つま先を入れた。
「外に出よう」
今度は私がうなずいた。
もと来た道をたどる保奈美の背中を追って土手を登り、今度は川側の土手を下った。土手と河原との境目に、道路わきの側溝に使うU字溝が上下を逆にして半分地面に埋もれていた。保奈美は制服のスカートをおさえると、その上に腰を下ろした。
「ここが私の定位置」
私はその隣に並んで腰を掛けた。
午後の暑い日差しの中に、山から湿った風が下りてくる。その風を頬に受けながら、私は目を閉じた。
「はい」
熱く湿った頬にひやりと冷たい痛みが走った。目を開けると、ジュースの缶を私の頬に押し当てながら、保奈美が笑っているのが見えた。私も微笑み返しながら、缶を受け取った。
『明日の私』第10章「保奈美」(3)
