『明日の私』第10章「保奈美」(8)

小説

 夏休み最後の週末を、私は家でのんびりと過ごすことにした。
 週明けの月曜日は夏休み明けでもあり、そこからは嫌でも他人と顔を合わせる日々が続くことになる。何も土日にまで人との接触を詰めこむ必要もないだろう。心も体もどこかで休養を欲しているようにも感じていた。私は昼少し前まで布団の中でごろごろしていた。
 ごみ出しはこの家の主婦である私の仕事だ。平日ならば美智子が仕事に出かけたあと、学校に行くまでの短い時間にごみをまとめ、あわてて集積所に出してから学校に向かう。土曜日は空き缶の回収日だ。私は眠い目をこすりながらのろのろと布団から這い出し、空き缶を入れたごみ袋の口を締めるために二階の寝室から一階の台所へと下りていった。集積場には朝の九時までにごみを出さなければならないことになっている。しかし実際には、収集車が来るのは昼の十二時を回ってからになる。
 毎晩のように缶ビールを飲んでいた父親がいたころは、空き缶の回収日ともなると袋二つを両手に持っていかなければならなかったものだ。今は毎回大した量にはならない。しかしどんなに少量でも、回収日のたびに捨てに行くことにしていた。
 この日もいつものように、何の気なしに空き缶の入った袋をプラスチック製のごみ箱から取り出した。桃やトマトの絵が描かれた空き缶が、カラカラと乾いた音を立てた。口を縛るために袋を一旦床に置き、その傍らにしゃがみこんだ。その瞬間、意外なものが目についた。ここしばらくの間見たことのなかったビールの缶が一つ、他の缶に混ざって異質な光沢を放っていた。
 抽斗からレースの編み物を取り出して私に見せた、昨日の美智子の姿が目に浮かんだ。これも彼女にとってやりたいことの一つだったのだろうかと考えてもみたが、どうにも腑に落ちなかった。私の知る限り、美智子はつきあい程度にもアルコールを口にしなかったからだ。
 そしてまた一つ、私は気がついた。
 この臭いだ。空き缶の入ったごみ袋に充満した臭いは、過去に嗅いだ記憶のあるものだった。
 恐る恐る、ビールの空き缶をつまみ上げてみた。飲み口の縁の窪みに、小さな灰がこびりついていた。私の胸は大きく波打った。耳の下の頸動脈が、青く浮かび上がってその姿をさらけ出しているような痛みを覚えた。私の手は何かに導かれるようにそれを手に取り、缶の中を覗き見ていた。
 そこには数本、微量の水分を吸い上げて茶色に変色した、タバコの吸殻があった。
 私は振り払うように空き缶をゴミ袋の中に投げ入れた。そして立ち上がった。キッチンの水道の蛇口をひねり、勢いよく水を出した。その下に指先を、さらに手を入れて洗い流した。水しぶきが四方に飛び散った。私は流れ続ける水の中で、何度も何度も手をこすりあわせた。体のどこからか感情の波が立ちあがった。その発露を求めて目に涙をあふれ出させた。途切れ途切れに胸の奥から突き上げる嗚咽を止めることができなかった。
 なぜ?
 疑問符だけが宙に舞った。私は、自分の体が自分のものではなくなったような感覚にあえいだ。

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