人は、自分と相手との関係性において、特定の枠を設けて自分の姿を見せる領域を制限するものです。
仕事を介して知り合った相手には、仕事上の関係性にふさわしい範囲に限定し、自分の姿を見せるものです。うっかりその枠を逸脱してしまうと、仕事上の関係性に支障をきたす恐れが生じるからです。仕事を公私の別に置き換えることもできるでしょう。「公」の立場で知り合った相手には、公の立場で通用するような自分に限定して接することが多く、それ以上の自分を見せることに躊躇します。「私」的な場合にも同様の理屈が成り立ち、「公」の立場を含めた、自分の姿をすべて見せることはなかなか困難です。自分が相手に見せる姿の種類や分量や内容を限定しているように、相手が自分に見せている姿もまた、ひどく限定されたものであることは当然考えられます。あるいはどんなに本当の姿をすべて見せ合おうと決めた関係性においても、同じ事実や表現が、誰にでも同じように受け止められるものであるとは限りません。今回紹介する『私が語りはじめた彼は』には、「私は、私にとっての真実を語りました。事実は一つですが、真実はきっとひとの数だけあるのでしょう」とあります。どんなに自分の本来的な姿を見せようとしても、あるいは相手の姿を見せられたとしても、関係性の限定を抜きにして自分の中の相手、あるいは相手の中の自分を語ることはできません。
「ある人」の姿を、他の多くの人間たちの証言をもとに立ち上がらせる。そんなスタイルで書かれた物語を読んだことはあるでしょうか。仕事やプライベート、「公」「私」の場で相手に見せることができる自分の姿が制限されたものであるのなら、「ある人」を語り尽くすためには他の多くの人間の視点が必要とされます。「ある人」に対し、ある者は「公」の関係性で相手を論じ、別のある者は「私」的な関係性で相手を論じるというように、立場を変えた複数の人間たちに「ある人」について語らせることで初めて、その本来的な像を浮かび上がらせることができるのです。『私が語りはじめた彼は』は、誰かに接するとき、その人間が本来的にもっている人間性のほんの一部分しか見ることができていない事実を、私たちに気づかせてくれるのです。
ここでいう「ある人」は、作品中では村川という男性にあたります。村川が複数の女性と関係をもっていることが、ある怪文書から明らかになります。この文書は誰が書いたものかという謎から始まり、村川を取り巻く、主に女性たちの人間関係にまつわる謎がふくらんでいきます。それらの謎は、登場人物たちが自らの半生を振り返ることを促し、村川の存在とはまったくかけ離れた、ごく個人的な謎を呼び起こすことさえ厭いません。まさに謎が謎を呼び、その謎を読み解く過程で一人ひとりの登場人物の本来的な姿が浮かび上がってくるのです。「ある人」の姿を浮かび上がらせるためには、立場を変えた複数の人間たちに語らせることが必要だと書きましたが、その語りを、一人ひとりの登場人物が自分を取り巻く謎を解きながら保証していく過程には、読者を強く惹きつける力が秘められています。謎を謎のまま撒き散らすことはいくらでもできます。しかし、その謎の芽を刈り取って、読者を納得させるためには、作者にそれ相応の筆力が要求されます。作者は巧みに謎の芽を刈り取りながら、あるいは敢えて謎のままにしておくことで、読者の心をがっちりと掴むことに成功しているのです。この作品には、作者の非凡な文才が存分に発揮されていることもまた、見逃せないポイントとなっています。
誰かに接するとき、私たちは本来的にもっている姿の一部分しか見せることができません。それは相手の姿を一部分しか見ることができないという点についても成り立つものです。しかしもっと面白いのは、私たちが感情をもつ人間だということです。私たちは人間である以上、機械のように一定の思考や行動を取るものではありません。立場や環境を越えて、「なぜか馬が合う」あるいは「どうしても受け入れられない」という、感情論でしかない関係性をもつことも考えられるのです。私には、仕事での関係から始まった同性の友人たちがいます。これまで書いてきた理屈から言えばあり得ないことですが、話していると楽しくて、自然と会話が弾み、時々飲みに行くようになり、次に飲む機会をもつのが楽しみに思える関係性を築くことができています。これまでに述べてきた内容からすれば、奇跡とすら言い得るような関係性を築くことができたいるのです。このような関係性は稀有だからこそ、宝物になり得るのです。『私が語りはじめた彼は』には、関係性の制限を超えてしまったばかりに、嫉妬や憎悪が膨れ上がった人間たちの姿が描かれます。どうせ同じように関係性の制限を超えて結びつくのなら、幸せを感じられるような人間関係を作ることができればいいですよね。皆さんにもそんな小さな奇跡が訪れることを、心から祈っています。
39.『私が語りはじめた彼は』 三浦しをん著 新潮社 2004年9月25日4刷
書評