「何気ない日常を淡々と描いている」と評される作品はたくさんあります。ある人物の何気ない日常が作品として成り立つのなら、人の数だけ物語が存在することになり、それこそ数え切れないほどの物語が世にあふれることになります。もちろん、すべての人々の日常が物語として世に送り出されるわけではありませんから、そんなにたくさんの物語は読み切れないよと心配する必要はありません。よく、「小説にしたら面白い作品になるような体験をした」などと、自らの経験を語る方がいますが、その体験を物語として作品にまで昇華させることができる人はほとんどいません。ごく一部の執筆を生業とする人々が、心血を注いで作品を完成させない限り、私たち読者の手に物語は届けられないのです。「何気ない日常を淡々と描いている」とは言いながらも、それは題材を誰の日常にも起こり得る出来事の中から集めて物語を編んでいるという意味において、「何気ない日常」と表現されるのです。「何気ない日常」を切り取って、読者の心に迫る、等身大の物語を紡ぐには作者にそれ相応の筆力が求められます。「何気ない日常」から題材を得ながらも、そこに作者のメッセージが込められるからこそ、物語は「何気ない日常」のレベルを超えて、読者の心を揺さぶることができるのです。
『ほかならぬ人へ』の主人公は、ある会社を経営する一族の御曹司です。本人にとっては自分自身の能力にそぐわない身の上がかえって邪魔になり、劣等感にさいなまれる日々を送っています。経済的に余裕のある家庭で育ち、常にその傘の下にいることが、周囲の人々からすれば注目すべき他者との相違点ということになるのでしょう。そのため、主人公を取り巻く環境には嫉妬や羨望が渦巻くことになります。そんな主人公に関係する人々の中に、果たして本書の題名にもある「ほかならぬ人」は含まれているのでしょうか。「だからさ、人間の本性は、死ぬ前最後の一日でいいから、そういうベストを見つけられたら成功なんだよ。言ってみれば宝探しとおんなじなんだ」という記述から、「ほかならぬ人」はその人でしか有り得ない相手を指し、必ず存在するもののすぐに見つけられるものではなく、まるで宝探しのように、探して探して探し抜いて見つけ出すしか方法がないものだということがわかります。
私は「ほかならぬ人」を、拡大解釈するわがままを許していただきたいと思っています。具体的には、分野ごとにほかならぬ人を選出させていただきたいのです。「ほかならぬ人」といえば、どうしても結婚相手をはじめとした異性をイメージしてしまいがちです。この作品の中で描かれる主人公(男性)の行動を見れば、やはり様々な女性について「ほかならぬ人」であることを求めていることが読み取れます。単なるイメージではなく異性を対象として考えさせる仕組みになっているのだとしか思えません。それではなぜ自分で勝手に選び出した様々な分野ごとに「ほかならぬ人」を探し出せるよう拡大解釈したいと思うのか。それは私の生活を取り巻く様々な場面で、感謝すべき人々の存在に思いあたるからです。その一つとして音楽の例を挙げます。私はそれまで人並みに邦楽や洋楽を聴いてきましたが、特にのめりこむわけでもなく詳しくなるわけでもなく、ただ何となく生活の中に音楽を取りこんできました。ところが、たまたま仕事の関係でパイプオルガンの音色を耳にすることがあり、その音の圧倒的な存在感に、音楽に対する考えががらりと変えられました。端的に言えば、「音楽って素晴らしい」と思うようになったのです。これは理屈で考えるようなものではなく、体全体で得た感覚のようなものです。音楽の素晴らしさに気づかせてくれた「ほかならぬ人」として、オルガニストには心からの感謝を贈りたいと思っています。
「何気ない日常」とは言いながら、目を凝らせば毎日の生活の中に感謝すべき相手がたくさんいることに気がつきます。しかし改めて見つめ直さなければ、その存在に気がつくこともなく毎日が過ぎ去ってしまいます。あなたにとっての「ほかならぬ人」が、今、あなたのすぐ近くにいる人だと確信することができるのなら、すぐにでも何かしら感謝の言葉を伝えてみてはいかがでしょうか。「急にそんなことを言うなんて気持ち悪い」という反応に、面食らうことになるかもしれませんが、そこは覚悟を決めてください。口では気持ち悪いなんて言う相手でも、他人に感謝の言葉を伝えられて本当の意味での嫌悪感を抱く人はいないでしょうし、言葉を発した側も温かな気持ちになるはずです。今のところまだ「ほかならぬ人」を探している最中だという人は、すでに知っている人たちのなかから無理にでも「ほかならぬ人」を選んでみてください。何しろ分野ごとに選べるという条件を新たに設定しているのですから、誰か一人ぐらいは心当たりのある相手を思い浮かべることができるのではないでしょうか。『ほかならぬ人へ』には、この人が主人公にとっての「ほかならぬ人」です、などという明確な記述はありません。その分、数多くの女性の登場人物について、その可能性を探ることになります。ただ、最後に添い遂げた女性こそ、主人公にとっての「ほかならぬ人」なのだと捉えることができる程度です。さて、どうでしょう。あなたにとっての「ほかならぬ人」にたどり着くことができたでしょうか。分野を限ったものであれ、絶対的なものであれ、もしも誰かにたどり着いたのなら、明日にでも伝えてみてください。君は僕の「ほかならぬ人」です、って。
40.『ほかならぬ人へ』 白石一文著 祥伝社 平成22年2月1日4刷
書評
