41.『共喰い』 田中慎弥著 集英社 2012年2月12日4刷

書評


 第146回芥川賞(平成23年度上半期)受賞作です。
 数年前にある文章を書いたところ、それを読んで下さった女性から「いかにも男性が書いたものだ」との指摘を受けたことがあります。私は本を選ぶ際、特に作者の性別を考慮に入れることはありませんでした。男性作家が書いたものでも女性作家が著したものでも、特に区別することなく購入し、あるいは図書館などから借りて読んできました。しかしこの指摘を受けてからというもの、何とはなしに作者の性別を念頭に置きながら物語を読み進めるようになりました。それでも、作者の性別によって生じる差異が、必ずしも明らかになるようなことはありません。作家の性別によって生じるある種の傾向は確かにあるのかもしれませんが、私自身はあくまでも作家個人に対して、文体の特徴や物語を構成する際の癖のようなものを発見することの方がよほど面白く、生産的であると考えています。
 しかしある種の傾向については、作者の性別によって発現の度合いが偏るように思えます。「性」的な描写に触れる際、そのことを最も強く感じるのは私だけでしょうか。殊に「性」を仲介した暴力の描写が、あるいは暴力を受けた記憶の描写が、それを受ける側の視点や行動をないがしろにしているような印象を与えることがあります。その頻度は女性作家の作品よりも、男性作家の手による物語の方が高い傾向にあると思われるのです。例えば村上春樹の作品を考えてみましょう。彼の作品に共通する「喪失感」の根拠が、物語に登場する女性の「性」の経験の中に見られる辛さにあるように思えるのです。『ノルウェイの森』のレイコさんは、特異な「性」的経験から精神の崩壊をきたします。『アフターダーク』では、中国人の娼婦にひどい暴力をはたらいた男が登場します。『女のいない男たち』に収められた「木野」という短編に、男の手によって体中に火傷を負わされた女性の姿が描かれます。いずれの作品においても、「性」にまつわる辛い経験をもつ女性を描くことで、作品全体の陰影を深めることに成功しているように思えます。その反面、作品に描かれた女性の立場に立って考える読者は、その描写のむごたらしさを想像して不快な思いを抱くのも無理からぬことだと言えるでしょう。
 『共喰い』は男性作家によって書かれた、複数の場面で「性」にまつわる暴力を受ける女性の姿が描かれた作品です。たとえ暴力によって虐げられていても、自己の尊厳を守り、したたかに生きていこうとする女性の姿を描いてはいます。しかしそれ以上に、男性の身勝手な暴力に繰り返し耐えている様子が作品の随所に描かれ、読者の心を暗い淵へと追いやる役割を果たしていることは間違いありません。作品そのものとしては暴力の世代間移転に怯える少年を主人公としているため、物語上の道具として暴力に耐える女性たちの姿が描かれるわけですが、その手法が少々無造作に過ぎるように思われます。少年の父親には暴力に晒される女性の感情や体へのいたわりが異常なほど欠如し、周囲の視線や道徳観念をまったく無視した状態にあります。その行為は、鬼畜にも劣るようなレベルです。少年は父親のあまりにも奔放な性格あるいは行動によって、振り回され続けているだけではありません。特に「性」的な欲望を制御しようともせず、行為中の暴力を肯定するその姿に、嫌悪を越えた憎しみを抱いています。さらにその憎しみは、自分の中に否応なく流れている父親と同じ血に向けられ、同じ血を宿しているがゆえに、「性」的な行為中に行われる忌まわしき暴力が、やがては自らの手によって引き起こされるのではないかとの強い危惧に囚われていくのです。
 私がこの作品に違和感を覚えるのは、物語に現実味が欠如しているためです。限定された地域社会の中で、これほど傍若無人な振る舞いが放置されるものでしょうか。答えは「否」です。少年の父親は「性」的な行為中の女性に対する暴力を自ら肯定し、恥じ入るどころか開き直っています。そのことを地域社会の人々は黙認しているように思えます。しかし、少年の父親の暴力の犠牲者は誰かの娘であり妻であり家族であるはずです。そんな大切な存在が傷つけられていながら誰も裁断を下そうとせず、されるがままになっているかのような物語の展開は、背景にあるはずの社会性を無視した上に成り立った小説というフィクションのなかの、さらなるフィクションに陥っているように思えてなりません。物語の都合により、社会性を無視した設定に終始しているように思えるのです。これでは女性や他の「性」の立場から作品に触れる読者が、その描写のむごたらしさや理不尽さに不快な思いを抱くことはあっても、共感することは困難であるように思えます。人は誰しも何らかの「性」を有していいます。男性や女性といった二極分化的な考え方で間に合っていた時代とは異なり、様々な色彩をもった「性」が考慮されるようにもなってきています。作家が男性ならば「男性的な視点から書かれた作品」を世に送り出すのは当然ですが、その作品のなかに他の「性」をもった登場人物を意識することができなければ、多くの読者に読まれる作品にはなりにくいと思うのです。私にとってこの『共喰い』は、物語の受け手の存在を考えることの重要性に気づかせてくれた作品となりました。

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