『永遠の花嫁』「序章」

『永遠の花嫁』

凡例:本ブログに掲載するにあたり、以下のように設定した。
・この物語は「倉科」の視点から語られるsideAと、「桜田」の視点から語られるsideBに分かれ、交互に編まれている。同じ章内のsideAとsideBは、対を成す構造になっている。
・A・B各side横の数字(1・2等)は、各章を細分化するうえで便宜的に付したものである。
・縦書きを想定した原稿であるため、漢数字を使用している。

「濡れ雪」

 いつの間にか雪になっていた。
 雨を降らせていたときよりも黒を増した雲から、小さな白い欠片が落ちてくる。水気を多く含んだ重い雪の粒に頬を冷たく濡らしながら、倉科くらしなは長い冬の終わりを覚えた。四月に入ってからも思い出したような降雪に見舞われる土地ではありながら、この雪質は真冬のものとは明らかに異なる。
 ほんのわずかな条件の違いにより、同じものであるはずの水と雪、あるいは氷は、まったく異なる性質をもつことになる。その不可思議が面白いと思える。見る者、あるいは見方によって、一つしかないはずの事実そのものまで違って見えることもまた、これと同じように面白い。
 まるで雪が天から舞い降りてくる道筋に沿って音を吸いこんでしまうように、しだいに静寂が増しているように思える。黒いコートの肩に、次々と白い雪が降りかかる。倉科は手早く雪を払い落とすと、体を運転席にすべりこませた。シートに身をあずけ、ドアを閉じた。そしてほっとひとつ、白い溜息をついた。
 イグニッションにキーを挿しこみ、回した。火が入ったエンジンが、ブルンと鼓動を打つ。ヘッドライトを灯し、サイドブレーキを解除した。ギアをドライブに入れる。あとはブレーキから足を浮かせるだけで、国産のセダンは少しずつ前に進むことになる。駐車スペースをするすると抜け、ハンドルを右に切って正門を出た。路面には雪が少しずつ積もり始めている。スタッドレスタイヤを履いているから、無茶な運転さえしなければ雪で滑ってコントロールを失う心配はない。それでも家族が待つ家に無事にたどり着くまでは、意を注いで運転しようと気を引き締めた。校門からのびる直線道路を右折し、少しだけアクセルを踏みこんだ。
 試みに、ヘッドライトの角度を上げてみる。降りしきる雪の粒に光が反射し、その眩しさにかえって視界がふさがれる。毎年のことながらこの事実を再び確認したところで、ヘッドライトの角度を元に戻そうとスイッチに手をかけた。
 その瞬間、目の前に黒い影が躍り出た。
 ライトに照らし出されて白く光る雪の粒の向こうに、大きな翼を広げた鳥が落ちてきた。そう思った。ブレーキを強く踏み込んだ。ガッガッガッと、ABS(アンチ・ロック・ブレーキシステム)が作動した。機械的な衝撃が身体を前にのめりこませた。車がその動きを止めるまで、ブレーキ以外の衝撃を感じなった。目の前の物体をかずにすんだ。
 そこに、男がいた。
 両手の平を車のボンネットに置き、フロントガラスの前に顔を突き出すようにして、男が立っていた。男の身体がボンネットのすぐ前にあるために、ヘッドライトの光が押し潰されている。隙間から漏れ出した小さな光だけが、男の顔の輪郭をなぞっている。そのせいか、殊更に深く陰影が刻み込まれている。窪んだ眼窩と削げ落ちた頬とが、波に晒された岩肌を思い起こさせた。しばらく雪に降り込められていたのだろう。濡れた髪が額にはりつき、その先端から流れ出す水が頬を伝っている。鳥の翼のように大きく見えたのは、男が着ていた黒いステンカラーコートの裾がひるがえって出来た影だった。
 そこにいたのは、一戸(いちのへ)達樹(たつき)だった。
 自らの意思を確認するかのように、達樹がひとつ頷いたように見えた。そしておもむろに車の助手席側に回り込んだ。ドアを開けた達樹の顔は、青白く凍りついていた。
「出してください」
 相手の脅えが自分の胸の中にも冷たく入り込んでくる。
「先生、驚かせてすみません」
「心臓が止まるかと思ったぞ」止まるという言葉とは反対に、倉科の心臓は弾けるような鼓動を打ち鳴らし続けている。おさまるまでにはそれなりの時間を要するが、その余裕はなさそうだ。「急にどうしたんだ? 何かあったのか?」矢継ぎ早に問いが口を突いて出る。
「そこを右に曲がって、津軽大沢駅で降ろしてください」
 達樹は、倉科との会話を望んではいなかった。
 倉科が教員として勤め、一戸達樹の母校でもある高校と、弘前の中心街を結ぶルートには二本の鉄道が走っている。一本はJR奥羽本線。そしてもう一本が私鉄、(こう)(なん)鉄道だ。弘南鉄道の高校前の駅を出て街の中心に向かうと、ひとつ目が津軽大沢駅だ。一戸達樹を拾ってから、ごく短い距離を移動することになる。
「そんなに濡れたままじゃ風邪ひくだろ。今夜泊まるところまで乗せていく」
 達樹のなかに尋常ではない切迫を感じ、自分自身も激しい動転のなかにありながら、倉科は突然現れた教え子を気遣った。
「ありがとうございます。でも、ここでいいんです」
 もうすでに、駅が目の前に迫っていた。駅舎に助手席側を寄せて車を停めた。達樹はドアを押し開き、身体の向きを変えると車を降りた。
 おそらくすべて計算していたのだろう。弘前の中心に向かう列車がホームに近づいていた。警報機がそのことを告げていた。
「先生、申し訳ありませんが、このノートを預かっていてください」
 達樹はそう言って、二つ折りにされた一冊の大学ノートをジャケットの内ポケットから取り出し、助手席に投げ入れた。
「私に何かあったら、それを警察に」
 倉科の背筋に悪寒が走る。
「何かあったらって、お前はどうするつもりだ?」
 達樹は笑った。そう思えた。
「先生、椿(つばき)を頼みます」
 達樹は車のドアを閉め、駅舎に向かって走り出した。このタイミングなら、列車に駆け込むことができるだろう。
 小さな駅舎の向こうに達樹の背中が消えるのを見届けてから、倉科()は車を出した。その瞬間、何かが変わった。わずかな気温の変化が雨を雪に変えるように、小さいけれども確実な変化が否応なしに自分の未来に訪れようとしている。
 このままではまずい。このまま達樹を見送ってしまっては、取り返しのつかないことになる。そんな思いが頭をよぎった。そして、達樹の言葉を思い出した。
 椿。あの椿のことか。
 倉科はハンドルを握る手に力を込め、ブレーキを踏み込んだ。薄く積もった雪に、再びABSが作動した。路面の雪を左右に押し分けたタイヤがアスファルトに食いついた感触を確かめ、ハンドルを大きく切りながらさらにアクセルを踏み込んだ。この位置からなら、ついさっき達樹が乗ったはずの列車を三つ先の駅でつかまえることが出来るはずだ。
 倉科は車を走らせた。
 目的の無人駅に到着するころ、狙い通り列車がホームの上を滑り込んでくるタイミングをおさえることができた。猫の額ほどの小さな駐車スペースに車を止め、ホームへと続く短い階段を駆け上がった。歩きながら次々と窓の中を覗きこんでいった。たった二輌しかない列車だ。見落とすはずなどない。しかし、そこに目的の男の姿はなかった。やがて列車は銀色の小さな体を軋ませながら走り出した。
 雪は相変わらず、すべての音を飲み込みながら地上に降り積もっていた。倉科はその場に立ちすくむことしかできなかった。

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