全く目を通すことなく『一戸ノート』を桜田に渡すほど、倉科は正直ではない。そこに、倉科という自分自身のものを含め、知っている人間の名前があることを確認していた。
川村椿。
倉科とならんで同じページに記載されたその名に触れた瞬間、心に差し込んだ闇の深さに倉科自身驚いた。
記憶は消去されたのではない。心の井戸の奥底に、ただ隠されていたに過ぎない。この事実に今更ながら気づかされた。古い記憶が疼き始め、動き出そうとする。
◆
橙色の柔らかな光。砂と埃の匂い。
二〇〇五年、四月中旬のことだ。春の陽光に肌がじっとりと湿り気を帯びていた記憶がある。
長年の風雪に耐えてきた証しとして、トタンを葺いた外階段には手摺に触れるのさえためらわれるほど、赤錆が浮いていた。幾度も雨に濡れては乾いてを繰り返したためだろう。ドアの化粧板の下部は捲れ上がっていた。風がさわさわと木々の葉を揺らせているほかは、動いているもの、生きているものの気配が何ひとつ感じられなかった。
ドアを二度ノックした。しばらく待っても何の反応もない。やはり誰もいないのだと見切りをつけて帰ろうとすると、ドアの向こうに僅かな物音がした。そして、不意に開け放たれた。目の前にセーラー服を着た少女が一人、虚ろに立っていた。その制服は倉科が勤める学校のものではなかった。転校に伴う準備が間に合わなかったのだ。
「ちょっと話せるかな」
「どうぞ」
気をつけなければならない。倉科は自分に言い聞かせた。深く息を吸い、長く吐いた。そして、玄関の中に足を踏み入れた。それと同時に椿は部屋の奥へと入っていき、窓の桟に腰をかけた。
「今週一週間、一度も学校に来なかったから、どうしたのかと思って」
玄関と部屋の奥。二間しかない小さな空間とはいえ、倉科と椿との間にはそれなりの距離がある。倉科は半ば叫ぶように話した。
「ずっと、家にいました。今日も一度は学校に行く支度をしたんですが、ついこのまま」
小さく低いはずの椿の声が、不思議と真っ直ぐに倉科の耳に届く。
「そうか。何かあったのかと思ったよ」
倉科はそれとなく玄関から部屋の中に視線を走らせた。夕日が届かない陰の部分に、ゴミ袋が積み上げられている。引っ越しの片づけもまだ終わっていないようだ。台所の流し台の中からは、片手鍋の持ち手が斜めに突き出ていた。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A1
『永遠の花嫁』