事件を早期に解決するためには、初動捜査が極めて重要となる。そのエキスパートが機動捜査隊だ。目撃者への事情聴取、証拠品の収集、現場周辺の聞き込みなど、犯人逮捕に至る有益な情報や証拠がどれだけ得られるかが鍵となる。何が重要な証拠になるのかは、この段階では分からないことが多い。だからこそ、どんなに些細だと思えるものでも見過ごしてはならない。そんな思いが体にしみ込んでいる人間達が、神経を鋭利に尖らせて現場に臨む。
被害者は一戸達樹。スーツのジャケットの内ポケットには現金が入ったままの財布が残され、その中から新聞社の社員証と運転免許証が発見された。この状況から、どうやら物盗りの犯行ではないと推察された。
現場検証の時点で、鋭利な刃物による刺し傷が四箇所に及んでいることが分かった。傷の深さから見て、比較的刃渡りの長い凶器が使用されたものと想像される。
本庁付きの桜田が殺害現場に駆けつけることはない。捜査本部が立ち上げられることを見越して、応援部隊として派遣されるのが通例だ。現場の全体や部分を観察し、そこから有益な情報を得るのは鑑識係官の仕事だ。桜田はもちろん、常に鑑識係官をはじめとした他人の目を通じた情報を頼りにすることが多い。殺害現場を目の当たりにすることができないからこそ、遺体の状況を詳しく見ておきたいと桜田は思う。この件に関しても、捜査本部への配属が決まってすぐに手をつけたのが、遺体に関する情報を司法解剖医から収集することだった。本来は得られないはずの情報に接することができるのは、桜田がもつ人脈による。
この日は二月十五日、水曜日。一戸達樹の死後、二日が経っていた。目的の遺体はすでに解剖室に運び込まれている。首都圏で変死体として扱われる遺体のうち、解剖によって死因が特定される割合は約一割程度でしかない。理由は司法解剖医と施設両方の絶対的な数の不足による。今回の場合は事故よりも事件の可能性が圧倒的に高いため、捜査上の必要から解剖に回されることになった。
大学病院の玄関は、それにふさわしい威厳に満ちている。しかし地階に下り、解剖学研究室に向かう廊下は、一歩進むごとにある種の暗さを増していくように思える。剥き出しになったコンクリートの壁には、ドーム状の曲面をもつ天井から側面に向かって常に水が流れ続けている。そのため壁と床との境目には、びっしりと緑色の苔が貼り付いている。戦時中は防空壕として利用されていた場所だ。そんな話を聞いた記憶がある。
「先生、またお世話になります」
すらりと背の高い、白衣姿の男がコンピューターの前に座っていた。桜田は事前に連絡を入れ、この男がいる日を確かめておいた。
八鍬医師が、それまで凝視していたコンピューターのモニターから視線を引き剥がして振り返った。眼鏡の奥から桜田を見上げている。彼はこの大学の医学部の准教授であり、若手ながら日本でも数少ない法医学の権威だ。精神医学の分野でも名が知られているというのだから、同じ医学界に限っても、その活躍は多岐にわたる。精神的・肉体的に決定的なダメージを受けたことで桜田自身が世話になった過去を含め、何度もこの研究室を訪れてきた。桜田が遺体に関する情報を集めに足を運ぶのは、八鍬と交わす会話が捜査に大きなヒントを与えてくれるからだ。他の刑事よりも一歩先を行こうとする上で、桜田にとってこの時間はとても有意義だった。
「被害者に対面できますか?」
「できます。すでにひと通りのチェックを終えているので」
八鍬は立ち上がると、部屋のさらに奥へと続くドアに向かった。遺体を間近に見ることができる機会は、そうやすやすと与えられるものではない。桜田が背後を見やると、緊張にこわばる山脇の顔があった。
三人が向かう先に遺体安置室がある。八鍬が観音開きの扉を引くと、部屋の中央に据えつけられたステンレス製の解剖台が見えた。台は桜田の腰よりも少し低い位置にある。そこには白い布で全身を覆われた被害者が横たわっていた。
『永遠の花嫁』第一章「早雪」B7
『永遠の花嫁』
