『永遠の花嫁』第一章「早雪」B8

『永遠の花嫁』

 八鍬は白布を勢いよく捲くり上げた。グランドピアノのカバーを外しているような手つきだ。布のたわみは柔らかく空気を孕み、被害者の上半身を露にして腰のあたりに重なり落ちた。痛みか驚きか、見開かれた目が染みだらけの天井を凝視していた。瞳はもうすでに乾いている。こうなるともうまぶたを閉じさせることはできない。鋭く切れ上がった目尻が、この男の無念を表しているように思えてならなかった。
「被害者は前から襲われたけど、相手が自分に近づいてきたとき、身の危険は感じていなかったようです」
 八鍬は右手の中指で頭をかいた。
「どうしてですか?」
「腕に防御創がありません。突然だったか、もしかしたら顔見知りの犯行だったのかもしれません。一瞬気を許したら、胸をぐさりっていうところですかね」
 八鍬は被害者の左胸に刻み込まれた刺し傷を指差した。傷の幅が思っていたよりも狭い。それは先端が尖った刃物が横にずれることなく、より深くまで刺し込まれたことを表していた。
「それじゃあ、これが致命傷ですか?」
「いや、違います。二つの刺し傷のうちこちらが深いのは事実ですが、出血多量で死ぬようなところまでは達していません」
「どういうことですか?」
「ほら、傷口が肋骨の下にあるでしょ? ナイフをもった手が肋骨にあたって、刃がそれ以上中までいっていないんです」
 だから、心臓につながる太い血管までは損傷させることができていない。これでは短時間で致死量に至るほどの血液が流れ出すことはない。八鍬はそう説明した。
「でも、この傷が一番深いんですよね?」
「深さは。恐らく最初の一撃なんだろうと思います。刺すべくして刺したから、一番力がこもったというところでしょうか。でも、致命傷ではありません」
「じゃあ、どれが致命傷ですか?」
「ここです」
 八鍬は被害者の右側の首筋を指差した。
「頚動脈、ですか?」
「そうです」
「左胸の刺し傷は右利きのものですよね。この首筋の傷は刃物を左手に持ち替えないと駄目なんじゃないですか?」
 八鍬はまたにやりと笑った。
「ここをよく見てください」
 遺体の右肩を少しだけ持ち上げた八鍬の手の位置を、桜田は身を屈めて覗き込んだ。
「ほら、傷口が背中側に尾を引いているでしょう? 上から下に振り下ろされた刃は、まず首を切った。そしてその後、背中に流れている」
「ということは、被害者は一旦犯人に背中を向けて逃げようとした」
 桜田の言葉に、八鍬は頷いた。
「胸の刺し傷は決して浅いわけではないけれど、致命傷ではない。確か目撃者がいたっていう話ですよね?」
 八鍬が顔を上げ、それまで何も話していなかった山脇に問いかけた。
「はい。現場近くに住むOLです」山脇は冷静を失わずに答えた。緊張はしているものの、遺体に対面しても動じない気持ちの強さがあった。「女の後姿だったっていう証言が取れています」
「うーん、そこがひっかかるんだよなあ」
「どうして?」
 桜田は二人のやりとりに加わった。
「胸の傷は理解できます。力の弱い女性でも、両手でしっかりとナイフを握って真っ直ぐに体重を乗せれば、相手の体に深く突き刺すことが可能です。しかし、首の傷がね」
「何か不審な点でも?」
「相手が全く動かなくなってから攻撃するか、よほどうまく隙をつかないと、こううまく致命傷を負わせることはできないものです。例えば女性の、片腕だけの力では」
「女の犯行だという先入観はもたない方が良さそうですね」
「それが現実的だと思います」
 同じ趣味をもつ仲間にコレクションを見せびらかしているように屈託のない、満足げな表情を浮かべる八鍬の顔を見るにつけ、つくづく変わった男だと思う。
「ありがとうございました。また、分からないことがあったら寄らせてもらいます」
 桜田は八鍬に背を向け、暗く湿ったトンネルへと向かった。
 大学病院を出ると、溢れる光が桜田を包み込んだ。その眩しさに慣れると、目の前に見覚えのある横顔があった。片側二車線の道路を挟んだ反対側にその男、高田はいた。
 道を渡ろうと信号が青になるのを待つ桜田に対し、高田は道路に沿って歩いている。その距離も角度も桜田からは相手を認識することが出来るが、高田からは桜田の存在に気がつくことはないだろう。桜田は自分の視線が高田に気づかれることを恐れることなく、その後ろ姿を目で追いかけた。なぜこんなところを高田が歩いているのかと(いぶか)った。しかし、高田に何も知らせていない自分こそがこの場所にいることを説明しづらい。桜田は高田を振り向かせるようなことはしなかった。

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