平成不況と呼ばれた時代、『失われた十年』は次の十年にも影を落とし続けていた。
「そういうこともあるんでしょうね。何らかの事故で在校生が死ぬこともあるでしょうし」
出張先ではレンタカーを利用することが多い。運転が比較的好きな桜田にとって、知らない街を車で流すのは楽しい。しかし、今ハンドルを握っているのは山脇だ。この雪道を、山脇はブツブツと文句を言いながら運転している。
圧雪は路面に凹凸を生み、道の両側に掻き分けられた雪が極端に道幅を狭めている。片側一車線ずつ確保されているはずの道路が、今は乗用車がまともにすれ違えない状況だ。山脇は対向車が来るたび、曲がり角や家屋の車庫の入口に車を寄せ、互いに道を譲り合いながら車を走らせていた。
言おうか言うまいか迷ったが、桜田は雑談としての軽さを込めて口にすることにした。
「あの先生、先生っぽくなかったと思わない?」
山脇は桜田を見もしないで答えた。
「実は私もそう思っていました。何て言うのかな、先生っていうイメージとはかけ離れていましたよね」
彫の深さのせいで、倉科の目はいつでも黒い影に塗り潰されているように見えた。そして、あの『手』。あの『手』は、教師だけをしてきた人間のものではない。親指以外の四本の指をつなぎ止める関節が、鎧のように分厚い肉の盛り上がりを抱えていた。正確には皮膚なのだろう。硬く、表面が荒い物に繰り返し打ちつけた結果皮膚が破れ、傷口を新たな皮膚が覆う。同じ訓練が連日繰り返され、新たな皮膚が少しずつ硬く厚く、拳に並ぶ関節を覆い続ける。それがごつごつと起伏に富んだ、岩のように硬い拳を作りだす。ある特定の目的、つまり打撃に特化した拳だと言ってもいい。その目的に合った訓練を積んだ結果呈された拳。地方の私立高校の地理・歴史科の教師がもっていて馴染むものではない。
桜田と山脇は所轄署に向かっていた。今回は電話で事前に知らせてはいたが、それで済ませてしまうわけにはいかなかった。相手の管轄下で捜査活動をする場合、顔を通しておくのが礼儀というものだ。所轄署への挨拶と聞き込み対象への訪問の順番が逆になってしまったが、最低限度の礼儀は守りたかった。これから訪問する旨はすでに携帯電話で伝えてある。
『永遠の花嫁』第一章「早雪」B11
『永遠の花嫁』
