望月は手元の酒を飲み干した。
「これ、いいね」
望月がカウンターの向こうに声をかける。美夏は手を休めないが、吐息のような笑みをこぼした。
「好みでしょ?」
「うん。もうひとつ」
「はい」
美夏は新たに酒を満たした徳利を望月の前に差し出し、ぐい呑に注いだ。そして柏木にも。着物の袖から伸びたその腕が、柏木の目にひどく白かった。
美夏がカウンターに徳利を置く。今度は望月がそれを手に、美夏を誘う。美夏は自分用の小さなグラスを出し、望月の前に差し出した。
「いただきます」
三人で杯を合わせた。ぐい呑の縁に唇を寄せた瞬間、涼やかな香が放たれた。
「しばらくね」
「修学旅行」
「ああ、そうだった」
「今日はその打ち上げ」
「じゃあ、三次会?」
「ううん、二次会。そろそろ、こういうのが自然だろ?」
「あら、もうそんな歳?」
美夏の口調は望月をからかうようだ。
「それもそうだろうけど、役割の問題だよ」
「そういうのは、あるかもしれないわね」
本当に旨い酒だ。だからこそ、うっかり飲み過ぎてしまいそうだ。そういえば、望月は美夏に酒の銘柄すら聞いていない。すべて任せているということなのだろう。
「柏木先生は、今、お幾つでしたか?」
唐突に望月が言った。
「七月で二十八になりました」
「そうでしたか」
自分で訊いておきながら、望月は柏木の年齢に関する話題を進める様子を見せない。それならばと、柏木は以前から望月に訊いてみたいと思っていたことを口にした。
「望月先生は別の仕事に就いていらっしゃったと聞いたことがあるんですが、確か営業職だったって。その仕事から教師に転職することに、不安はありませんでしたか?」
望月は少し考えるように間を置いた。
「もう十年以上、十四年になるかな。そのときは、特に大きな不安はなかったと思います」
逆算すれば、望月は今の柏木と同じ年齢で転職し、現職に就いたことになる。
「平成不況と呼ばれたころですよね。転職そのものが難しかったんじゃないですか? それまでの仕事を辞めるのは、怖くはなかったんですか?」
怖かった。どこかでそんな答えを期待していたのだと思う。だが、望月は柏木が思ってもいなかった答えを口にした。
「そうか、考えてみれば、今の柏木先生と同い年だったんですね。柏木先生はどうか分かりませんが、まだ二十代の後半だったあの頃には、転職も含めて怖いものは何もありませんでした」