自宅周辺には東京とは思えないほどの緑があふれている。在来線の車窓には、都心部に近づくにしたがって建物の密集度が高まる。やがてコンクリートのジャングルへと景色が変わる。隙間を縫うようにして走る列車が、駅舎へと吸い込まれていく。佳佑は列車を降りた。
改札を抜け、一旦外に出た。
地上を走る鉄道から地下鉄へと乗り換える。ものの数分で最寄り駅に着いた。一つの駅にはいくつもの出入り口がある。そのうちの一つを選ぼうにも、慣れない駅では苦労する。その問題を解決するために、スマートフォンに入っている地図のアプリケーションを利用した。便利な世の中になったものだと、つくづく感心してしまう。
夕方五時。まだまだ陽が高い。五月の空はこの時刻に夕食を摂るには明るすぎる。四角いコンクリートの群れに区切られた小さな空を見上げる。薄曇りの夕空はほんの少しだけ赤味を帯びていた。
いくつかの角を右へ左へと折れた。ほどなくして、藍地に白抜きの暖簾が見えてきた。「喜楽」と読めるその前に立ち止まった。
暖簾の向こう、磨りガラスの引き戸のさらに向こうに人影が動いていた。料理と酒で人をもてなす店にしては、客の入りが早すぎる。空の明るさと店の明かりがいかにも不似合いだ。これも、新型のウイルスがもたらした新しい光景だと言える。磨りガラスの隅にマスクの絵が貼りつけられている。
春先の空気は、夕方になって急に冷え始めた。頭を低くして暖簾をよけながら、引き戸の把手に指先を掛けた。ゆっくりと引き開けると、少しだけ湿った温かな空気が体を包み込んだ。
「いらっしゃい」
店には複数の客の姿があった。小上がりには通常であれば四人掛けとなる卓が三、それぞれに斜向かいになるよう、座布団が二枚ずつ置かれていた。間隔にも十分に気を配ったうえ、卓上にはアクリル板が立てられている。これからは人と人との間に隔たりができて当たり前の時代になる。
「どうぞ、こちらに」
一人客だ。当然のようにカウンター席に案内された。隣の席との間にはもちろんのこと、全面にもアクリル板があった。
「すみません、お酒はお出しできないんですが」
そう言いながら温かい茶が出された。緊急事態宣言下、酒類の提供と営業時間が制限されている。
「普段、お酒は?」
「飲まないんです」
佳佑のこの言葉に、あの人はゆっくりと頷いた。手元は見えないが落した視線から、カウンターのなかで手早く通しを準備しているのだと思えた。
目の前に小皿が出された。それに応じるふりをして、あの人の顔を盗み見た。ほんのりと微笑むその顔に、人は、存外変わらないものなのだと思わされた。