『明日の私』第6章「馬鹿」(1)

小説


 夏休み初日は結局のところ誰も職員室、『秘密クラブ』には行かなかったようだ。あまりにも唐突で漠然としたその趣旨に、皆が一歩引いてしまったのかもしれない。
 それでも夏休み二日目になって、私と保奈美を含めた四人が『秘密クラブ』に参加したのには理由があった。その日の午後の早い時間帯には、三十度を超す猛暑に見舞われたのだ。その後も気温はぐんぐんと上がり続け、昼を過ぎるころには三十五度に達した。北国とはいえ岩木山をはじめとした山々に四方を囲まれた地形のために、夏になるとじっとりとした蒸し暑さに包まれる。
 私は勉強しなければならないと切実に思っていた。総合コースから進学コースに移ったばかりの一学期前半は、ただただ授業の進度についていくだけで精いっぱいだった。家に帰ってひと通りの用事を済ませ、学校があった日にも毎晩三時間程度の勉強時間を割いてきた。それでもまったくクラスメイトに追いついていなかった。この夏休みの期間に少しでも差を埋めておきたかった。
 美智子が仕事に出かけた後、夏休みだから一人で家にいることができる。誰にも邪魔されることなく落ち着いて学習に取り組むことができる。そう思っていた。しかし、こうも暑いと集中することができない。市立図書館に行くことも考えたが、着て行く服を考えるのが面倒だった。
 保奈美と『秘密クラブ』に参加する約束をしたことは、意外にも正解だったかもしれない。『秘密クラブ』が馴染めないものだったら、ただ場所を変えればいい。勉強するなら学校の図書室を利用してもいいし、そこが受験をひかえた三年生に占領されているようなら、柏木に頼んで教室を開放してもらってもいい。とにかくクーラーのない自宅にはいられない暑さだ。
 こころみに家で参考書を開いてみる。指先に触れるページがわずかに湿っている。ただ座っているだけでも汗がにじみ出てくる。十一時を過ぎたころいよいよ暑さに耐えきれなくなると、私はよろよろと椅子から立ち上がった。ついつい暑いと独りちてしまう自分を認めながら、私はのろのろと制服のシャツに袖を通した。タッパーウェアに入れておいた昨晩の残りの白米にお茶漬けのもとをふりかけ、熱湯をそそいだ。そこに少しの水を足して口のなかに掻きこんだ。それでもお茶漬けの熱さに口のなかの粘膜がひりひりとやけた。猫舌が疎ましかった。
 炎天下を自転車で走った。力の入れ方によってはいまだに右足が傷んだが、自転車に乗ることそのものはできるようになっていた。肌にべたりと貼りつくような湿度の重い空気のなかを、自転車をゆっくりとこぎながら前に進んだ。半袖の白いシャツから伸びた腕が、太陽の光にちりちりとかれた。本当にそんな音が聞こえてきそうなほど、太陽の光は容赦なく私の肌を刺した。日に灼かれることが恐くて、一刻も早く校舎にすべりこんでしまいたかった。しかしある一定のラインを越えてペダルを踏む力を強めると、気温の高さと体内で発生した熱のために全身の毛穴から汗が噴き出してしまう。
 それでも、夏ののんびりとした緑を眺めながら自転車で走るのは、やはり気持ちがいい。ここは全国でも有数のリンゴの産地だ。背を低く保たれた黒い幹や、枝の先に萌える新緑や、リンゴ畑の足元を埋める下草の黄緑色が、私の視界に入りこんでは流れ去っていった。このありふれた緑の景色こそが、私の感情を深山の湖面のような凪で満たしてくれた。

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