『明日の私』第9章「合宿」(8)

小説

 「星の観察会っていうのかな。確か希望者が多くて抽選になったと思うんだけど、天文台の企画に家族で参加したんだ。東京って言っても郊外の山の上に上ると、空が近くて小さな星にも手が届きそうな気がしたことを覚えてる。もう二十年も前の話だ」
 ぼんやりと夜景を眺めながら話を続ける柏木の目に、街の光がいくつも映し出されていた。
「親父は建築士で、理系のかたまりみたいな人だった。とにかくそういうのが好きで、子どものころは雲さえなければ一晩中でも夜空を眺めてたって、よく聞かされたよ」
「お父さんとはたくさん話せたんですね」
「そうでもない。星の観察会のときには天文台の職員の話を聞かなくても、それまでに親父から教えてもらっれたことで十分に星や星座の名前が分かった。でも、普段は無口で無愛想な人だったから、一緒にいて話をしてくれてるときが嬉しくてさ。どっちかって言うと、兄貴の方が可愛がられてたと思うし」
「先生は今と同じで、生意気だったからじゃないですか?」
 柏木は私に驚いた顔を向け、それからちょっと笑った。
「盆に実家に帰って久しぶりに会ったら、親父がすっかり小さくなってて、寂しくてな。子どものころに手を握ってもらうたび、大きくて強いと思ってたその手も、今ではすっかり細くなって」
「何かあったんですか?」
「ちょうど一年くらい前になるかな。脳梗塞で倒れたんだよ。それから、左半身に力が入らなくなった」
 柏木が一つ、大きなため息をついた。そして少しの間口を閉ざした。夏の夜の空気に含まれた水の粒子を、全身の皮膚でゆっくりと深呼吸しているような、そんな沈黙が柏木と私の背中を包んでいた。
「お父さん、回復はするんですよね?」
 沈黙が恐くて、私は言葉を探した。夜霧が徐々に濃くなってきたように思う。街の灯がじんわりとにじんで見えた。
「退院したばっかりのころは、リハビリすれば何とか回復するだろうって言われてたらしい。でも、親父自身が諦めたみたいなんだ。特に左腕が、肩から指先まですっかり硬直してしまって、胴体に貼りついたみたいに縮こまってる。それを伸ばすには力も必要だし痛みはあるしで、本人にとってリハビリはとても苦痛だったらしい。一年は何とか頑張ったんだけどな」
 柏木は他の人よりも少し大きく見える喉仏を上下させ、つばを飲み込んだ。
「俺は親父に何もしてやれてない。今回の帰省でつくづくそう思わされた」柏木は何かを言い淀んでいた。記憶をたどっているような、曖昧な沈黙が流れた。「親父は自分を伝えるのが人一倍苦手な人だったからずっと分かんなかったけど、愛情だったり想いだったり知識だったりお金だったり、あらゆるものを注ぎ込んで俺を作ってくれたんだ。今になってそれが分かる。分かるくせに、親父に対して今度は俺が何をしてやれるのかが分からない」

タイトルとURLをコピーしました