「公社の民営化が実現したあとの問題点って、どんなところにあるんですか?」
「三百四十兆円にのぼると言われている公社の貯金をいかに利用するかってことに尽きる。今回の選挙戦では、この点に関する首相の考えを聞くことができなかった。初めに民営化ありきで、その後の具体的なビジョンがないのか、または使い道を決めていたとしても国民に知られれば次の選挙で票が集められないと判断したのか、とにかく国民は公社の貯金の使い道について何も知らされていない」
「先生はそのとんでもない額のお金がどんな風に使われると思いますか?」
「美夏はどう思う? 美夏が総理大臣だったら、何に使うかな?」
「国民みんなが幸せになるようなことに使えればいいんでしょうけど、具体的には思いつきません」
「そうだよな、難しいよな」
柏木はちょっと間を置いた。テーブルに肘をつき、指の間にボールペンを挟んだまま顎に手をそえた。
「考えられるのは、資金をグローバルな金融市場に放出するって方法だ。例えば、アメリカを中心とした外資系企業に投資したり、海外の不動産を売買するような使い道が考えられる。そうやって増やしたものを国内の政治に生かせば、もっと充実した社会政策を実現することができる」
話し続けて喉が渇いたのか、柏木は机の上のマグカップを引き寄せると、コーヒーを一口ぐびりと飲み下した。ついさっき、豆をがりがりと挽いていた柏木の背中を思い出した。インスタントコーヒーとはちょっと違う、爽やかな香りが心地よく私の鼻腔を刺激した。
「でも、グローバルな金融市場はハイリターンな反面ハイリスクでもあるから、運用の仕方を間違えればとんでもない損失を生み出すことにもなる。この点が心配だな。そして、こんなリスクをおかしてまでグローバルな金融市場に資金を流すとは思えない。だから、あくまでも可能性の一つということになるだろうな」
ボールペンの先がさらさらと反故紙の上をすべり、そのあとにインクの線を残した。線は黒い糸のように絡みあっては文字を結び、語句を作り、さらに矢印でつなげられ、丸で囲まれる作業を繰り返した。やがて紙面に浮かび上がったのは、見えないはずの社会の動きを一目で理解することができるように切り取られた相関図だ。
話しながら書きながら、なおも解説を続ける柏木の手元を私は覗きこんだ。ボールペンを握る柏木の手は、紙の上をすべり続けている。しかしそのなめらかさとは裏腹に、彫りこまれた線の一本一本は紙面を切り分けるほどに力強い。
柏木の指はどれも一様に節くれだち、根元がずんぐりと太い。手の甲には指へとつながる腱が張り出し、太い血管が浮き出ている。薄い皮膚の下に息づいた静脈には、心臓へと向かう赤い血が通っている。柏木の手は林檎のように固いのだろうか、それとも、熟したアボカドのように柔らかいのだろうか私はそんなことを考えていた。
「他にはどんな使い道が考えられますか?」
保奈美の声に、私は我に返った。
『明日の私』第12章「三者面談」(3)
