人の体は想像していたよりもずっと重かった。おもに葛西さんが支え、私は手をそえている程度だ。しかし一見痩せて小さく見える老人であっても、力を抜いてすべての体重をあずけられればずしりと重い。机の上で文字や数字を追いかけているだけでは決して得ることのできない経験だ。私はこの仕事の辛さと面白さを感じ始めるのと同時に、この種の仕事が今一つ評価されていないように思えた。
福祉の仕事はこれからますます求められるはずなのに、社会的な評価を十分に受けていない。それが率直な感想だった。
どんな仕事であれ、私利私欲のみでこなすことができる人はごく少数に限られるだろう。大多数の就業者は、やりがいや責任感や報酬といった価値を得るために仕事をしている。そんな中、限られた空間内で、他者からの評価を受けにくい職業に就いていたとしたらどうだろうか。継続的に高い意識を保ちながら仕事に励むことができるだろうか。胸に抱いた理想はいつしか綺麗事として形骸化し、思い遣りはままならない相手への悪意や憎悪に変貌する可能性を秘めていると思えてならない。
熱心に心身のケアをしたからといって、特別養護老人ホームの入所者が突然若返り、担当職員の恩に報いるような謝辞を並べ立ててくれるわけではない。優良なケアに対する客観的な評価によって、成功報酬が与えられる仕組みを構築することも難しい。
政府が特別な補助金でも準備してくれればよいのではないだろうか。少子高齢社会に対する政策は、これからますます充実されるべきものだ。できる限り早く、現場の人間たちが働く意欲を維持することができるような、魅力的な政策を打ち出す必要がある。
そうか。
私はふと思い至った。
ずっと以前に柏木が言っていたことを思い出した。公社の民営化にともなう資金の流用についての話だ。こんな場面にこそ、社会基盤の整備費として公的な資金を使うことができるのではないだろうか。
寝たきりの老人の体を蒸しタオルで拭く葛西さんのかたわらで、替えのタオルをお湯にひたして適度な力加減で絞りながら、ふとそんなことを考えてみた。そして、何だかわくわくと胸が遊んだ。
この思考の流れが正しいのかどうかは分からない。私のような、まだまだ世間知らずの子どもの考えることだ。いくらでも穴があるし現実味が薄いのかもしれない。しかし実際に仕事に関わってみなければ、このような思考に頭を働かせることすらできなかったはずだ。ほんの少しだけ社会に適応する強さを身につけることができたような、世間を見る目がちょっとだけ肥えたような充実感を得ることができた。
「ねえ、何がそんなにおかしいの?」
いつ気がついたのか、一人で勝手にニヤついている私を、葛西さんは作業の手を休めることなくからかった。
『明日の私』第13章「反則」(7)
