私は毎日空を見上げていた。
右の手足が硬いギブスにおおわれた状態で、ベッドに横たわったままできることといったら、アルミサッシに四角く区切られた空をぼんやりと見上げるくらいのものだった。左手で頭上にかざせば本を読むこともできたが、長時間同じ姿勢を保つには限界がある。誰かと話したいと思っても、日の高い時間帯に私の話をじっくりと聞いてくれる相手などいるはずもなかった。
それでもよく見ていると、小さく区切られた空にさえ毎日違う表情があることに気がついた。一口に青空といっても、油絵の具で塗りつぶしたような青の日もあれば、たっぷりの水で溶いた水彩絵の具を筆で掃き広めたような青もあった。そこに雲がくわわればさらに空の表情は豊かになる。もくもくと厚味のあるもの。さらさらと流れるもの。うっすらと走るもの。鉛色の重苦しい雲。古人はさまざまな雲の形状に、趣き深い名前をつけたものではなかったか。具体的な言葉こそ思い浮かばなかったが、自分なりの言葉で相手に的確に空と雲の顔を伝えることができたなら、どんなにか素晴らしいだろう。そこに風が吹き、雲が流れ、あるいは形を変え、刻一刻と異なった表情を見せてくれるならなおのこと面白い。鳥でも虫でも飛行機でも、私の小さな空を一瞬でも横切ってくれたなら、その日一日が胸躍るものに変化した。
リハビリに取り組むことが許され、病院内に限られてはいるものの、多少の移動によって気分転換ができるようになった。それでも、空を眺める私の趣味は輝きを失わなかった。何か小さなことにでも、楽しみを見つけなければやっていられない。上手に時間をつぶすことができない。そのことを知っていて敢えて気持ちを割いてきたことではあるが、空を楽しむ気持ちは自然と私をなごませた。
アブラゼミの季節が過ぎ、ツクツクホウシの時期を経て、鈴虫の声が色あせたころ、私はようやく退院することができた。三か月間の入院生活で失ったものは両手に余るほどもあったのに、得たものといえば退屈な時間を空を見上げてやり過ごす技術だけだった。
北国の秋は早い。
退院し、学校に復帰した十月の暮れ、季節はもうすっかり冬支度を始めていた。
久しぶりに訪れた学校はどこかよそよそしく、白塗りのコンクリートに大きなガラス戸がはめこまれた昇降口は、寒々と他人行儀な顔をしていた。
この学校に通い続ける意味があるのだろうか。
私は登校前後の数日間ずつ、同じことを考え続けていた。