『明日の私』第3章「しょっぱい味噌汁」(2)

小説

 家に着くと、まずは買ってきた食材を冷蔵庫や戸棚に仕舞った。その間、小鉢は呆けた顔つきをして流し台の上にのっていた。ふと手に取って眺めた。この器を何に使おうか。夕食の準備をしながらも、あれこれと思いをめぐらせた。
 自分を励ますために買ったものなのだから、スイッチを切り替えてもうひと踏ん張りしなければならないときに使おう。そう考えた。ならば学校と買い物とを終えて帰宅した直後はどうだろう。
 学校での疲れを振り払い、「よしっ」と仕切り直すいつもの流れのなかに、ほんのちょっと息を抜く時間を作ろう。小鉢にそのときの気分に合った飲み物をそそいで、少しずつすすりながら頭のなかを空っぽにする時間を作ることができたら、気持ちよく夕食の準備に入ることができるのではないだろうか。そう思っただけで、私の心は弾んだ。
 最初が肝心だ。あれこれと考えた挙句、ジャスミンティーを淹れることにした。記憶のなかにある適度に華やいだ香りこそが、そのときの高揚をほどよく鎮めてくれるように思えた。
 台所の使い勝手をまだよくのみこめていない。ごそごそと茶箪笥のなかを物色してみる。ティーバッグのなかにつつましやかに収められた、目的の茶葉を発見した。戸棚のなかから久しぶりにティーポットを引っ張り出し、バッグを入れてやかんの湯をそそいだ。抽出されたジャスミンティーをポットから器にそそぐと、最初に香りが解き放たれた。続いて透明な薄黄色が小鉢のなかの小さな宇宙いっぱいに広がった。底部の瑠璃色は薄黄色のスクリーンをまとって、そこだけが暮れなずんでいた。
 こんな些細なことに心を躍らせている自分に、つい笑ってしまう。
 さあ、夕食の準備だ。私は冷蔵庫の扉を開いた。
 この一カ月。美智子は自分がパートから帰ってきた時点で夕食が出来上がっていることを心から喜んだ。彼女は感情をあまり表に出すような性質たちではない。しかし、自分の帰宅を明るく受け入れてくれる私の存在に出くわすたびに、心の一番深いところから湧き出してきたような自然な笑みを、歳の割に疲れて見えるその顔全体に浮かべる。私が家事をこなすことでこんなにも喜んでくれる人がいる。そう思うことが私をなごませた。

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