『明日の私』第7章「母」(2)

小説

 夏休みだからなのだろう。書店の駐輪場にはいつもより多くの自転車とめられていた。私のものとその隣の自転車が作り出していたささやかなスペースにまで、別の自転車の前輪がくさびのように差し挟まれていた。
 私は腕を駐輪場の奥に向けて伸ばし、自分の自転車のハンドルを両手で押さえた。その短い行動の過程でさえ、私の体のあちらこちらに他人の自転車がぶつかった。小さな痛みに不快感を抱いている自分をかえりみている余裕がなかった。右足でスタンドを軽く蹴り上げようとした瞬間、バランスを崩して自分の自転車を倒してしまった。買ったばかりの本と鞄がかごから投げ出された。その勢いで、隣り合う五、六台の自転車が将棋倒しになった。私の自転車のペダルが、下敷きになった他の自転車の前輪に挟まってしまっていた。いつもならば舌打ちのひとつでもしたあと、持ち主が現れる前にそそくさと直しにかかるところだ。しかし私は、自分でも驚くほどの瞬発力をもって、逃げた。
 私の自転車だけをアスファルトから引きはがすように起こしたあと、屈みこんで本と鞄とを拾い上げてかごに入れ直した。そして両手でハンドルを握り、後輪から自転車を引き出した。倒れたままの他人の自転車を尻目に、サドルにまたがってペダルを踏みこんだ。
 ペダルをこぐ足に自然と力がこもり、いつもより速く街をすり抜けた。夏の風に肌が汗ばむのも気にかけず、去年の夏から伸ばし始めた髪がバサバサと頬を打つのをはねのけながら、ただひたすらに家を目指した。
 家に着くなり乗り捨てるように自転車を降りた。鞄から家の鍵を取り出すのももどかしく、脱ぎ散らかした靴をきちんとそろえる手間などかけるわけもなく、転がりこむようにして家に上がった。書店名がプリントされた紙袋から重い中身を掴み出した。
 はたと気がついて本を一旦テーブルの上に置き、キッチンの流し台の前に立った。手を洗ってうがいをすませ、制服の袖をまくった。そして米をといで炊飯器をセットした。
 思い切り自転車をこいで帰ったためだろう。喉がからからに乾いていた。
 私は瑠璃の小鉢を戸棚の奥から取り出した。冷蔵庫を開けて紙パックに入ったカフェオレをそそいだ。小鉢には薄い褐色がよく似合っていた。
 もう夕暮れどきだ。空気のなかに密やかなオレンジ色がすべりこんでいた。留守の間に部屋に滞った熱は容赦なく私の腕に絡みつき、なりふりかまわず行動したことで体温が上がっていたことも手伝って、体中にじっとりと汗がにじんだ。そんな不愉快な状態を改善しようなどとは一切考えず、窓を閉め切ったまま買ってきたばかりの本のページを慌ただしくめくった。
 そこまでして確認したかったのは、もちろん「ゆとり教育」についてだ。
 柏木が話した言葉の間違いを見つけてやろうとか、疑う余地を探し出そうなどとは考えなかった。私はただ、「ゆとり教育」という言葉の意味や社会的な役割を理解し、自分の空っぽな脳を少しでも埋めようとする作業に没頭したかった。

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