『明日の私』第7章「母」(3)

小説

 すべてのページにびっしりとひしめき合う文字が、どこまでもよそよそしく私の網膜に映し出された。このレベルの重さの文章を、読み慣れていなかったのだと思う。文字の羅列のそこかしこに組みこまれた図や表にいたってはなおさらのことで、私には見知らぬ記号のようにしか思えなかった。
 それでも「ゆとり教育」の欄を必死に目で追った。理解することができない語句に行き当たるたびに立ち止まり、関連する語句を探して前に後ろにページをめくった。そのたびに私の知らなかった事実が次々と現れ、自分の知識の外側で世の中が確実に動き続けていることを改めて思い知らされた。
 その作業に時間を忘れて没頭した。
 一体どのくらいそうしていたのか。薄暮が部屋を満たしたころ、「ただいま」の声が聞こえた。
「どうしたの? 鍵もかけないで」
 美智子は帰って来るなりそう言った。
 私は「うん」と返答にならない相槌を打ったきり、顔を上げもしなかった。
 美智子は私の肩越しにテーブルの上に広げられた本を覗きこんだ。
「あら、勉強?」
「うん」
 あとひとつ、この言葉を調べたら一区切りつけるから。私は声を出さずに自分のなかにだけその科白せりふを響かせた。
「はーっ。お母さんお帰り」
 大きな伸びを一つして、私はようやく美智子に顔を向けた。
「何か調べもの?」
「うん、今日学校でちょっと分からない言葉があったの。それを調べてました」
 私はテーブルに広げていた本を、「ばん」と派手な音を立てて閉じた。
「珍しいわね、美夏がご飯を作るのも忘れて何かに夢中になってるなんて」
「あっ」
 私は短い声を上げた。
「ごめん、すっかり忘れてた」
 ふと我が身をかえりみると、足元に鞄を転がし、まだ制服を着たままだった。
「今すぐ作るからちょっと待っててね」
 私は慌てて自分の部屋に向かった。着替えるためだ。しかし、はたと気がついてリビングに戻った。美智子の姿は洗面所に消えていた。美智子に気がつかれないように、テーブルの上の小鉢を手にした。ぬるくなったカフェオレをシンクに捨て、かるく水ですすいだ。大まかな水滴を切っただけの小鉢を戸棚に戻すわけにはいかなかったので、それを手にしたまま再び自分の部屋に向かった。その私の背中を、美智子の声が追いかけてきた。
「いいのよ。せっかくだから、たまにはお母さんが何か作るから。美夏はゆっくり勉強の続きでもしてて」
 手を洗っているのか、蛇口から流れ出る水がステンレスのシンクを叩く音がかすかに聞こえてきた。私は自分の部屋にあったタオルで小鉢の水滴をふき取り、机の上に置いた。
「いいよお母さん。私の仕事だもん。ちょっと待ってて、今すぐやるから」
 私は手早く制服から普段着に着替え、台所に向かった。

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