買い物をして家に帰った。
七時十分前。美智子が帰ってくるまでにはまだ時間がある。私は手早く食事の準備にとりかかった。人間は環境に慣れる生き物なのだとつくづく思う。時間に追われてあたふたとこなしていた家事が、時間に合わせて当たり前のようにこなせるようになった。体が勝手に動いてくれると言った方がいいのかもしれない。
料理の腕がまだまだなのは自分でも分かっている。しかし、家事の巧拙の基準のひとつに手際の良し悪しがあるのなら、私は以前より家事がうまくなったと言えるだろう。当初は家にあった料理本を参考にして食材を買い、本を見ながら調理していた。これでは時間がかかってしょうがない。そのうえ食材が中途半端に余ってしまうことも多かった。それが徐々にスーパーに行って食材を見てから料理を思いつくことができようになった。料理のイメージが出来上がってから帰宅するから、すぐに作業にとりかかることができる。美智子の帰宅後、それほど待たせずに彼女に食事を出すことができるようになった。
この日スーパーに立ち寄ると、ゴーヤーをはじめとした夏野菜がおいしそうだった。豚のバラ肉が安かったので買い物かごに入れた。家の冷蔵庫にある豆腐と卵を使えば、ゴーヤーチャンプルーを作ることができる。彩りをもたせたくて、安くなっていた赤と黄色のパプリカを買った。食感が好きなので冷蔵庫に残っていたズッキーニを加えることにした。ゴーヤーと、同じウリ科のズッキーニが喧嘩するかもしれないとも考えたが、気にしないことにした。以前料理本を見ながら作ったときの記憶を頼りに食材を考えたが、何も料理本をそっくりそのまま真似なくてもいい。食べたいものを食べたいように工夫することが楽しいのだと知ってからは、食材も調味料も自分で遊ぶことができるようになった。与えられた基準でものを考えるよりも、発想に柔軟性をもたせて自由に調理した方が、面白く美味しい料理が出来上がることを覚えた。
炒めものは手間が少なくて済む。食材を洗い、適度な大きさに切り、味をみながら炒めれば出来上がる。すぐに炒められる状態にまで下ごしらえをしておけば、美智子が帰宅してすぐに調理にとりかかかり、温かいうちに食べさせることができる。しめじの味噌汁を作り、買っておいたキムチをそえれば、立派な夕食になる。
準備が整ったので、ちょっと一息入れようと思った。部活に精を出していた中学生のころは、帰宅するとまず食事をし、それからテレビを見ていた。特に見たい番組があるわけではなく、ただぼんやりと画面を眺めているだけだ。夏場になるとプロ野球中継ばかりを見ていたのは、父親が見ていたものを傍らで眺めていた習慣が残っていたからだ。意識して見ているわけではないから、記憶にも残らない。知らぬ間に夜が擦り減っていくような、気だるい時間だった。そして眠くなったころ、ようやく疲れた体を起こして風呂に入るのだ。
生活のサイクルから部活が外れてからというもの、テレビをほとんど見なくなった。時間の隙間ができたときには、新聞か本を手に取る。それだけ心にも体にも余裕ができたということなのかもしれない。私は瑠璃の器を戸棚の奥から取り出し、アールグレイのティーバッグを入れて湯をそそいだ。見る見るうちに琥珀色が広がり、器の底の瑠璃色が濃い茶色に変化した。器の端に唇を近づけると、華やかな香りが鼻腔を刺激した。息を吹きかけてこころもち冷まし、唇を湿らせる程度に口に含んだ。それだけでパッと目が覚めるような華やぎが、私を楽しませた。