「何かさ、すごく楽しいよね」
昇降口横の水道で、私と並んで手を洗っていた保奈美が言った。
「そうだね」
何の気なしにそう言って横を見ると、保奈美が笑顔のまま、声を殺して泣いていた。
「保奈美、どうしたの?」
驚いて問いかけた私に向かい、保奈美は顔を上げた。
「こんなふうに楽しい時間が過ごせてるのが信じられなくて。もっとずっと続いてくれればいいのにって思ったら、何だか泣けてきちゃった」
私はうまく言葉を見つけることができなかった。それでも何か言わなければならない。保奈美を適当にあしらって、その場を遣り過ごしていいとは思えなかった。
「保奈美、私でよければ何でも話してね。本当に、何でも」
はたしてそれが適切な言葉かどうかは分からなかった。
「ありがとう、美夏」
保奈美は制服のスカートのポケットから出したハンカチで涙をそっとぬぐった。次の瞬間、保奈美の顔には微笑みだけが残された。
体育館脇の倉庫の前で柏木が運転する車を待つ男子と合流した。間もなくして学校の名前が入ったワンボックスカーが近づいてきた。停車した車の運転席の窓が下ろされ、柏木が顔をのぞかせた。
「よし、みんな揃ってるな。早く乗れ。約束の時間になりそうだ」
歩き出した私の背中に保奈美の手がそえられた。素肌に直接触れているわけでもないのに、その手はとても温かく感じられた。私はそれまでにあまり感じたことのない痛みが胸のあたりにわだかまるのを感じた。その違和感に戸惑った。はっきりとした形をもたない、温かなかたまりのようなものが胸につかえているように思えてならなかった。
『秘密クラブ』の夜の部は九時から開始された。
「俺はちょっと奥に行ってるから、何かあったら声をかけてくれ」
柏木はそう言って、自分で指さした西の奥へと向かって姿を消した。私たち生徒五人は柏木がその場にいないことなど気にもかけず、教材を開いて再び学習に集中した。
一時間ほどが経過したころだろうか。気持ちを集中させていたために気づかずに済んでいた足の痛みが、いよいよ我慢できなくなった。
「いたたたたたたた、足が痛い」
私は足の痛みにうめいた。急に足を延ばしたことで、それまでうまく血が流れていなかった血管に急激に血が通ったことで、心臓の鼓動がはかはかと早まった。
「美夏は余計に足が長いからそんなことになるんだよ。俺なんか座高だけで一メートルあるんだぜ。その分脚が短いから、胡坐なんて楽ちん楽ちん」
哲也はノートに英文を書きながらそう言った。
「お前、そんなに座高高いの?」
勇児が横から茶々を入れた。
哲也は奇妙に顔を歪めて笑った。勇児は「何だよその顔」と言って身を引いた。
「少し落ち着いたらその辺をてくてく歩いてくるといいよ」
保奈美も学習の手を止めることなく私を気遣った。夜のなせるわざなのか、私以外の皆が集中力を持続することができている。私は足が痛いのだから仕方がないと、自分に言い訳をした。
私はちょっと歩いてくると誰にともなく断りを入れ、立ち上がった。足のしびれがわずかに残っていたものの、そのまま歩き出した。大広間を出て合宿所のドアを抜け、食堂の入り口にある自動販売機でペットボトルの麦茶を買うつもりでいた。歩きながらジャージのポケットに小銭があることを確認した。