『明日の私』第9章「合宿」(6)

小説

 腕の時計は十一時半を示していた。夏の夜の蒸し暑く真っ暗な中に、自動販売機が自らの放つ光によってぼうっと明るく浮かび上がって見えた。小銭を入れてボタンを押した。ペットボトルがガコンという音を立てて取り出し口に落ちた。柏木が消灯時間として設定したのは十二時。もう少し勉強することができる。ペットボトルを手に大広間に戻ることにした。
 合宿所に戻って大広間に向かう途中、その先の暗がりに視線を走らせると、物干し台に抜けるドアが開いていることに気がついた。他の四人の邪魔にならないように足音を殺して大広間の前を素通りし、奥へと向かった。
 そっと覗きこむと、開け放たれたドアの向こうに柏木がいた。物干し台のコンクリートの上に、黒い影が胡坐をかいていた。
「先生、こんなところで何やってんですか?」
 柏木はゆっくりと私に顔を向けた。いつもの、眉間に皺を寄せた厳しさも、どこか人をくったような笑みもない。私の中に、トンと胸を衝かれたような驚きが芽を吹いた。
「なんだ、美夏か。お前こそ、こんなとこで何やってんだよ。みんなと勉強してたんじゃないのか?」
「足が痛かったので、気分転換もかねてお茶を買ってきました」
 私は買ってきたペットボトルを柏木の目の前でかるく振って見せた。
「先生、私の質問にも答えてください」
「ああ、ごめん。ここは夜景が綺麗なんだ」
「えっ、そうなんですか? 私にも見せてください」
 柏木の返事も待たずに、私は膝の高さに広がる物干し台に上がった。
「うわっ、ほんとだ」
 柏木が言う通り、目の前に暗闇の中で色とりどりに瞬く光の帯が連なり、夜気に移ろうように華やいでいた。一つひとつの灯火は、一定の明るさを維持しているわけではない。常に明滅している。それは私の網膜に届くまで、数キロにわたる大気のフィルターを通しているためかもしれない。灯火の移ろいは人が生きていることに似ている。そう思えた。
 この一粒一粒の光の下に、一人ひとりの生活が営まれている。そんな光景を目の当たりにしたとき、私は共感やある種の感慨にふけることができない。
 むしろ心細くなる。
 多くの人間が、喜びのなかに生活しているようにはどうしても思えない。むしろ圧倒的な量の苦しみや悲しみのなかに、もがきながら生きているのではないか。そんなふうに思える。

タイトルとURLをコピーしました