私は心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような息苦しさに喘いだ。なぜかは分からない。しかし、柏木の困惑が私の体に痛いほど伝わってくるのをどうにも止めることができない。何か言葉を口にしたかったが、うまく唇が動かなかった。
「本当なら、これからは俺も親父とお袋の面倒をみていかなくちゃならないんだけど、今の状況だとなかなか難しいよな。今年の春から兄貴が両親と同居してくれてるから安心て言えば安心なんだけど、到底うまくいくとは思えない事情があってな。それを考えるとまた、何もできないでいる自分が情けなくなる。離れて生活しているから仕方がないのは分かってるんだけど、実際に弱り始めて他人の力が必要になった親の姿を見ると、辛くなる。ここ何日か、それで何だかもやもやして。それこそうまくいかない」
柏木が目を閉じた。
「親との距離って、難しいですよね。私も子どもでいなくちゃならないときと、大人にならないといけないときがあって」
私はなぜか、米をといでいる美智子の背中を思い描いた。「ザッ、ザッ」という、小さな音まで聞こえてきそうだった。
「いつだったかな。高校生になったばかりのころだったと思う。ふと気がついたんだ。本当に何てことのない場面だったんだけど。今みたいな夏の盛りの昼間、俺は家の縁側で足の爪を切ってた。パチンパチンていう音まではっきりと覚えてる。そこに親父がきたんだ。俺は太陽の光に照らされてたけど、親父は俺の後ろ、軒が作った影のなかに胡坐をかいて、ガサガサと新聞を広げて読み始めた。二人とも何も言わなかった。ただパチンパチンと爪が切られていく音と、新聞がガサガサと擦れる音だけが行き交ってた。足の爪を切るのなんてそんなに時間がかからないから、俺の方が早く手持ち無沙汰になった。でも、何でだろうな。その場を離れられなくて、縁側の外に足を投げ出してぶらぶらさせながらそこにいた。背中で親父が新聞をガサガサいわせてる音を音を聞いてると、何となく落ち着いた。太陽の光に灼かれて暑いはずなのに何だか気持ちよくて、眠くなった。うつらうつらしてたら、親父が立ち上がった気配がした。足音が聞こえて首を回すと、折りたたんだ新聞を右手にもって縁側を歩いていく親父の背中が見えた。そのとき気がついた。ああ、俺はもう、親父を越えたんだなって。どんなところがって聞かれたら、それなりに答えられるかもしれない。体格だったり筋力だったり。でも、実際のところは理屈じゃない。感覚の問題なんだと思う。間違いのない事実として。現実的に、俺は親父を越えてしまった。だから今を境に、これからは親父とお袋を守っていこうって、自分で自分に誓ったんだ。親父の背中に約束したって言ってもいい。家族との約束なんて実は言葉で交わすものじゃなくって、自分で勝手に気づいていくものなのかもしれない。今回の帰省で、その約束を果たせていないことが分かったから自分が情けなくて、何だかもやもやするのかもしれない」
私の背中に、冷たい水が走った。反射的に背筋を反らせた。
このところずっと、私の中でぐるぐると整理がつかなかった思考の渦が急速に凪いだ。それは決めていたはずなのに、約束したはずなのに、なぜ自分だけがと迷うから止められなかったものだったのだ。感覚として分かってはいるはずなのに、うまく言葉に出来なくてもがいていた自分に、柏木が名前を与えてくれた。私と同じ荷物を柏木も抱えている。そう思えることの安堵が、私の体を軽くした。