「おかえり」
美智子の声もいつも通りだったように思う。玄関からドア一枚を隔てたリビングにいるであろう、彼女の様子をうかがい知ることはできなかった。しかし、何もかも日常との違いはないはずだった。
だが、私の目は異質なものをとらえていた。
黒革の靴がそこにあった。
私は背筋が凍りつく感覚に、身を固くした。
自分の家の玄関に上がるのに躊躇し、そして恐怖した。
想像上の望まない光景を、有り得ないことだと思おうとした。
靴を脱いで玄関に上がり、リビングとの間を仕切る扉を押し開いた。
そこにはいつも私が美智子と差し向かいに座って食事を摂り、お茶を飲み、会話し、喜怒哀楽をともにしてきたテーブルがあるはずだった。
私は祈った。どうかそこに、いつものように美智子だけの姿があるようにと。そして今日の試験のことを話して、ねぎらいの言葉の一つでも受け、いつもと何も変わらない日常を過ごすことができるようにと。
しかし現実は、非情にも私の願いを捻じ伏せた。
私は瞬きをすることすら忘れ、凍りついた。
そこにはあの男、父親がいた。
右肘をテーブルにつき、人差し指と中指の間に煙草をはさみ、いつも私が座っている椅子に、そこにいるのが当たり前だとでもいうような傲慢さで、あの男が腰かけていた。
私は、瞬時にして頭に血が駆け上がった自分をもてあました。心臓の鼓動を受け、こめかみが今にも破裂しそうなほどに脈打った。望まない光景に蓋をするかのように目が霞み、展開されている風景をうまく理解することができなかった。熱でうなされているかのように、意識がもうろうとした。足に力が入らず、立っていることすらままならなかった。
美智子がもう一度「おかえり」を口にしたように思う。しかしその言葉も私にとってははるか遠く、二十万光年の彼方から響いてくる囁きにしか聞こえなかった。状況を理解するどころか、私はますます混乱した。
私はもちろんのこと、テーブルについている二人も、しばらく何も言わなかった。私の混乱があまりにも激しかったために、かける言葉も失われたのか。三人とも黙ったままだ。
『明日の私』最終章「明日の私」(5)
