夏空

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月見草16

教職に就いて五年目だ。何かを成し遂げたという実感などない。むしろこれから学び取らなければならないことの方がはるかに多い。何も得ずして立ち去ろうとする自分に、望月は嫌悪を抱くかもしれない。しかし、彼は同時に答えをくれた。こうなることを、柏木は...
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月見草15

ある夜には溢れる涙をどうにも止めることができなくて、病室のベッドを囲むカーテンのなかで声を殺して泣いた。ふと、誰かの手が柏木の頬を包んだ。驚いて目を開けると、涙の向こうに香織がいた。その目には、柏木と同じ涙があった。温かな涙が、香織の頬を伝...
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月見草14

「私は、特に心当たりはないと答えました。仕事の面で難しい問題が起こったようなことはありませんし、柏木先生がトラブルを抱えているようには見えなかったからです。実際のところはどうですか?」 望月が柏木に答えを求めている。「望月先生のおっしゃる通...
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月見草13

柏木は言葉を失った。揺るぎない自信を纏まとった望月の対岸で、不安におののく自分の姿を思い知らされた。ふと、何かの結び目がほどけたことで溜息がもれた。「夢、ですか」 言葉がぽつりと口をこぼれ落ちた次の瞬間、柏木は叫び出しそうになった。 フラッ...
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月見草12

柏木も望月に倣い、小肌を口に運んだ。芳醇な脂の旨みが瞬時に口を満たす。 唇を湿らせるようにほんの少し酒を口に含むと、小肌の脂が今度は酒の旨みと絡み合った。この瞬間の多幸を味わいつつ、柏木は望月との会話に戻った。「職場を離れると打ち明けた時、...
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月見草11

「夢、です」 柏木の胸に、さらりと乾いた風が吹いた。「夢、ですか?」 望月の口をついて出た、何か甘酸っぱいその言葉の響きが、柏木には不思議なもののように思えてならなかった。「そのときの、望月先生の夢って、何だったんですか?」「教職に、戻るこ...
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月見草10

勝手なことだとは分かっていたが、柏木は望月の言葉に得心がいかなかった。 望月は続けた。正確に言えば、怖いものがないという事実そのものに思いあたらなかった。怖いものがないのが当たり前で、実際に怖いものができて初めて、怖いものがなかった自分に気...
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月見草9

望月は手元の酒を飲み干した。「これ、いいね」 望月がカウンターの向こうに声をかける。美夏は手を休めないが、吐息のような笑みをこぼした。「好みでしょ?」「うん。もうひとつ」「はい」 美夏は新たに酒を満たした徳利を望月の前に差し出し、ぐい呑に注...
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月見草8

望月はそこが定位置であるとでもいうように、、促されるわけでも確認するでもなく、カウンター席に着いた。柏木はその隣に立った。「あら、珍しい。連れの方があるなんて」 カウンターの向こうで微笑む女性が、ころころと転がるような声でそう言った。端正な...
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月見草7

「よし、さあ、飲もう」 丹藤の声に、皆が笑顔で応えた。修学旅行に行く前から楽しみにしていた打ち上げだ。形式張らずに自由な空気のなかで飲ませたい。そのために邪魔にしかならない年嵩の人間は早く退散した方がいい。誰が何を言うでもなく、望月の考えは...