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15.『おじいさんの思い出』 トルーマン・カポーティ著 村上春樹訳 文藝春秋 1988年3月15日第1刷

私が高校を卒業したころのことだったと思います。その年の春に就職したばかりの兄から、何か欲しい物はないかと問われました。突然なぜそんな嬉しいことを言ってくれるのかと思って訊ねると、初任給が入ったから、何か記念になる物を買ってやりたいとのことで...
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『明日の私』最終章「明日の私」(最終回)

いや、違うな。もう一つの想像が、柏木の姿に覆いかぶさった。 もしも柏木が私と同じ立場に置かれたら、もっと野蛮に、何のためらいもなく、美智子をなじり、父親に嚙みついたかもしれない。そんな自分の姿を恥ずかしいなどとは思わず、めちゃくちゃに暴れま...
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『明日の私』最終章「明日の私」(9)

私は橋を渡った。 川に沿ってのびる土手の上には、乾いた土がむきだしになった白い道がどこまでも続いている。私は土手の稜線にのびるこの一本道を、当あて所どなく歩いた。 川原と反対側の斜面には、幹回りのたくましい桜の木々が連なっている。立派な枝ぶ...
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『明日の私』最終章「明日の私」(8)

雪国の初冬。 冬の短い日の光が、明々とアスファルトを照らし出していた。私はその光に、肌が焼かれるような痛みを覚えた。心を慰めてくれていたはずのさらりと乾いた冷たい風が、頬にちくりちくりと刺さっては、私の中に苛立ちを残した。 しかし、私は知っ...
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『明日の私』最終章「明日の私」(7)

私の視線に射すくめられた、美智子の目が物語っていた。仕方がなかった、と。 私は、胸の中を黒く塗りつぶす疑念が少しでも晴れるように、美智子にいくつもの問いをぶつけてやりたかった。どうして性懲りもなくまたこの男を受け入れようとしているのか、納得...
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『明日の私』最終章「明日の私」(6)

どのくらいの間そうしていただろうか。実際にはそれほど長い時間ではない。しかし、呼吸すら忘れさせる時間は、私にとって永劫の長さを宿していた。「試験はどうだった? うまくいったか?」 空気の重さに業を煮やしたのか、無理やり笑顔を作った父親がそう...
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『明日の私』最終章「明日の私」(5)

「おかえり」 美智子の声もいつも通りだったように思う。玄関からドア一枚を隔てたリビングにいるであろう、彼女の様子をうかがい知ることはできなかった。しかし、何もかも日常との違いはないはずだった。 だが、私の目は異質なものをとらえていた。 黒革...
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『明日の私』最終章「明日の私」(4)

推薦入試に関するすべての行程を終え、私がコンクリートの牢獄から解放されたのは、昼を少し回ったころだった。 晩秋の空はどこまでも高く、そして澄んでいた。 朝よりも一段と輝きを増した陽の光があふれる中を、私は学舎の出口から正門に向かって駆け出し...
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『明日の私』最終章「明日の私」(3)

「それじゃ、行ってきます。先生はこれからどうするんですか?」 そんなはずなどあるわけがなかったが、妙な期待をしてしまう。こうして待ってくれていたのだから、試験がすべて終わるまで会場の敷地内にいてくれるのかと。「これからすぐに学校だ。部活の連...
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『明日の私』最終章「明日の私」(2)

試験会場までは、バスの停留所で七つ分の距離だ。私は時間的に十分な余裕をもって会場まで歩くことを選んだ。凛と澄んだ、ちりちりと頬を刺す冷気の中に吐き出す息は、つい先日までよりもずっと白さを増していた。 この二年間、状況だけを並べ挙げれば、幸せ...