小説

『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(10)

私はまた、自分の胸が静かに熱を帯びていることに気がついた。春の陽光に照らされた海のように温ぬるみ、しんと凪いでいるのを感じていた。心のどこかにいつも抱えこんでいた苛立ちが、小さな板切れになって大海原にぷかぷか浮いているように思えた。自分は途...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(9)

私は心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような息苦しさに喘いだ。なぜかは分からない。しかし、柏木の困惑が私の体に痛いほど伝わってくるのをどうにも止めることができない。何か言葉を口にしたかったが、うまく唇が動かなかった。「本当なら、これからは俺も親父...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(8)

「星の観察会っていうのかな。確か希望者が多くて抽選になったと思うんだけど、天文台の企画に家族で参加したんだ。東京って言っても郊外の山の上に上ると、空が近くて小さな星にも手が届きそうな気がしたことを覚えてる。もう二十年も前の話だ」 ぼんやりと...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(7)

しかし、この夜は違っていた。なぜだろう。胸の奥がほんの少し温かい。「周りが田んぼとリンゴ畑ばっかりでちょうどいい具合に暗いから、こんなささやかな地方都市の明りも綺麗に見える。夏の夜に涼しい風に吹かれながら街の灯ひを眺めるには最高の場所だろ?...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(6)

腕の時計は十一時半を示していた。夏の夜の蒸し暑く真っ暗な中に、自動販売機が自らの放つ光によってぼうっと明るく浮かび上がって見えた。小銭を入れてボタンを押した。ペットボトルがガコンという音を立てて取り出し口に落ちた。柏木が消灯時間として設定し...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(5)

「何かさ、すごく楽しいよね」 昇降口横の水道で、私と並んで手を洗っていた保奈美が言った。「そうだね」 何の気なしにそう言って横を見ると、保奈美が笑顔のまま、声を殺して泣いていた。「保奈美、どうしたの?」 驚いて問いかけた私に向かい、保奈美は...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(4)

柏木が振りかぶった。小さな体重移動だったが柏木によって適切な力が加えられたボールは、私のグローブめがけて真っ直ぐに飛んできた。ボールそのものの勢いだけで私のグローブを閉じさせる。正しすぎてつまらないボールだ。 私はグローブのなかのボールを右...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(3)

柏木もふくめた五人がグローブを手にすると、それぞれが暗黙のうちに数歩下がった。ほどよい距離をとった五角形ができあがった。保奈美だけが体育館前の階段の一番下の段に腰を下ろして、皆の様子を眺めたいる。それだけで楽しそうに見えた。「じゃあ、いくぞ...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(2)

「せっかくの休みにわざわざ合宿につきあってやってるんだから、しっかり勉強しろよ。どれ、俺もしばらくここにいようかな」 柏木はそう言って、自分も大広間の一画に別のテーブルを据えた。ノート型のパソコンを開いて何やら仕事を始めた。 『秘密クラブ』...
『明日の私』

『明日の私』第9章「合宿」(1)

盆明け、八月十九日の夕方から二十日の午後にかけて、合宿所で番外編『秘密クラブ』が開かれた。実家で盆を過ごすために帰省していた柏木が戻るのを待ってのことだった。職員室とは違って、合宿所にはエアコンがない。夕方から始めるのは、昼間の暑さを避けて...