『永遠の花嫁』第一章「早雪」A2

『永遠の花嫁』

 倉科は息を呑んだ。
 記憶の中の、達樹の虚ろな目がこちらを見ていた。体に突き刺さったナイフによる痛みで、その顔が歪む光景が脳裡に浮かんだ。
 言葉を発しない倉科に業を煮やしたのか、桜田がさらに言葉を重ねた。
「どんな生徒でしたか?」
「簡単には話せませんが、今、かいつまんで話した方がいいですか?」
 話そうと思えばいくらでも材料はある。倉科の問いに、受話器の向こうで桜田が逡巡している様子が伝わってきた。
「いえ、そうですね。何か資料のようなものがあれば、準備していただけるようなタイミングでもう一度お電話いたします。いつごろがよろしいですか?」
「二月十二日、日曜日とおっしゃいましたか?」
 達樹が殺されたという日付を確認した。
「はい、そうですが?」
 桜田の声に疑念が混じる。
「実はその直前の金曜日、二月十日に、達樹が突然私を訪ねてきました。そして、ノートを一冊、預けていきました」
 受話器の向こうの空気が、凍りついたように動かなくなった。
「すぐにそちらにうかがいます。たぶん明日の夕方か、夜になると思いますが」
 そうまくしたてると、桜田は電話を切った。
 倉科は受話器をフックに戻しながら、しばらく忘れていた呼吸を取り戻すように深く息を吸い込んだ。期せずして桜田に再会する機会を作ってしまったことに、実感が伴わない。
 振り返ると、そこには不安に曇った環の顔があった。
「六年前の卒業生が東京で殺されたっていうんだ。どんな生徒だったか教えて欲しいって。多分、明日の夜にでも、学校で今話した刑事と会うことになると思う」
 環の表情が険しさを増す。
 教え子が、殺される二日前に俺のところに来た。その言葉をぐっと呑み込んだ。環に、余計な心配をさせたくはなかった。しかし、話さなければならないことは他にある。
「今の電話、山脇刑事の後に、桜田と話した」
 一瞬のうちに環の表情に不安が貼りついた。
「桜田って、あの?」
 倉科は頷いた。
「大丈夫だよ。覚えているようには思えなかった」
 不安を取り除くように、倉科は環の肩を軽く叩いた。しかし、環は表情を曇らせたままだ。
「着替えてくる」
 二階へと続く階段を上った。その先のホールの左右にドアがある。左側が長女の、右側が長男の部屋だ。小学校一年生の姉と幼稚園年少組の弟。まだ幼いからか、二人はとても仲がいい。長男の部屋に布団を並べて、二人で寝ている。倉科はその部屋のドアをそっと押し開いた。空気がしんと冷たく、どことなく乳臭いような、子どもの匂いがする。二組の小さな布団の間にひざまずき、二人の柔らかな頬を交互に撫でた。手の平に抑え難い愛おしさが湧いてくる。
「ううん」
 ドアの隙間から差す光にまぶたをきつく結びながら、長女の(あかね)が小さく伸びをした。
「あ、パパ、お帰り」
「ただいま。ごめんね、起こしちゃったね」
「ううん。怖い夢見たから」
 小さな顔がこちらを向いている。枕の上に広がった長い髪が、薄暗がりの中でも艶やかに光を湛えているのが分かる。その横では長男の(りく)が布団をはだけて寝ている。
「どんな?」
「忘れちゃった」
 倉科は茜を安心させてやりたくて、笑顔を作った。
「大丈夫だよ。本当の茜は、家族みんなと一緒にこのお家にいるから。さあ、ぎゅうしよう」
 倉科は茜の背中に腕をまわし、小さな体を抱き起こした。茜の体を自分が温めているのではなく、茜の体に自分が温められている。このぬくもりが今の自分のすべてなのだとあらためて思う。
「さあ、もうおやすみ。また明日、元気に起きようね」
「うん、おやすみ」
 バイバイと小さく往復する手の平が、暗がりの中で驚くほど白く見えた。

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